睨みを利かす前頭3枚目・正代と玉鷲

 秋場所新番付が発表となった。
新大関として豊昇龍が昇格し、「大関」には3人、名を連ねた(2場所連続大関誕生)
新関脇には琴ノ若。6場所連続勝ち越し。先場所11勝を上げ、敢闘賞受賞。先場所10日目から6連勝中でもあるんですね。柔軟な取り口で上位陣を苦しめることができるのか。
新小結は、3日前に33歳になったばかりの錦木。名古屋場所終盤まで優勝争いを引っ張った実績は、今場所どういう形で生かせるか。史上3位のスロー出世(新三役)と話題性もある。

そこから下の方まで見渡していけば、渋いメンツが前頭3枚目の東西に控える。
酸いも甘いも嚙み分け、栄光と挫折を知り、実績プラスアルファを持ち合わせるこの2人、正代と玉鷲。正代31歳、玉鷲38歳の30代コンビである。

片や元大関13場所・幕内優勝1回、片や玉鷲は幕内優勝2回・関脇8場所と小結6場所を務め上げた大ベテラン・レジェンドだ。

注目してます!理由として
正代は足(特に右足)の状態いかんで、調子が良ければ上位陣・優勝争いを揺るがす存在になるのでは。
玉鷲は38歳(11月で39歳を迎えるが)片男波部屋は力士数が少ない=工夫を凝らした稽古=出稽古で補っているのだろうが というのとケガに無縁なことと本人の気持ちが若く、相撲に対して前向きでいること。 

この2人が優勝争いまでとは言わないが、言うところの上位陣を揺さぶる存在・震源地的な、優勝争いを(陰で)動かす・動かしてほしい力士であるのだ。

私はひねくれ者なのか、王道とは違うところに着眼点を置くことが多い。

この2人が目を覚ましたら、本気になったら秋場所(9月)はどう動くかわからないぞ。
番付的にも面白い立ち回りだ。

応援しまくり↓↓↓

勝武士を忘れない

 日テレ系「24時間テレビ」放送中だ(今夜9時まで)
今年も会場は(いつからか)相撲の聖地・両国国技館である。

そのためか、相撲絡み(力士出演)の企画ものが多い。
白鵬(宮城野親方)の手形押し(速さ・枚数)を競う。
狼雅を始めとした二子山部屋の力士と他の部屋の関取(数名)との歌や踊り
追手風部屋 翔猿・剣翔・大翔鵬のダーツの旅
⇈これが面白かった。(特に)翔猿と剣翔はバラエティ向きでは??
笑わせてもらいました。

24時間テレビの本来の主旨は、障害者や被災者、難病患者などに着目し、視聴者からの寄付を、国内外の福祉・環境保護・災害復興の支援に役立てる事を目的とした番組というものだそうだ。

ここで思い出したことがある。
コロナ禍で世の中・世界中が騒然とした(5類となり、大分規制が緩和されましたが)残念にも相撲界から犠牲者が出てしまいましたね。

元三段目・勝武士(高田川部屋)
亡くなられてから早いもので3年以上が経ちました。
とても真面目で明るくひょうきん、気配りのできる部屋のムードメーカー的存在であったそうです。初っ切りで巡業や花相撲では人気者で知られており、長い年数を楽しませてくれた。

土俵歴は13年を数え、最高位は東三段目11枚目だったが、初っ切りでの実績や人間性の良さは相撲関係者の中でも評価されており、勝武士本人も引退後は若者頭や世話人といった業界の裏方として残れればという内に秘めた思いはあったらしい。本当に残念だ。

高田川部屋ホームページ、部屋の力士・三段目欄には今も勝武士の顔写真・画像が掲載されている。
高田川部屋はいつまでも勝武士の魂を忘れない。

勝武士を思い出しながら↓↓↓


二所ノ関ツインズ

 二所ノ関部屋に双子力士が存在する。
林兄弟。長野県岡谷市出身。
本名は長男が、林 琉(はやし りゅう)次男が林 玲(はやし れい)
四股名は長男が、林龍(はやしりゅう) 次男が林虎(りんこ)である。

2人とも中卒での入門ではあるが(相撲に対して)全くの素人ではなく、小学校在学中に相撲クラブに通い、アマチュア大会で実績を上げての入門だ。
入門に際しては、現在の二所ノ関部屋前身・荒磯部屋で稽古を体験し、けがをしない体作りに力を入れる部屋の方針などにひかれたのがきっかけ。

初土俵から1年ちょっとが経過し、プロの力士として8場所を務めた。
7月場所終了時点では、弟の林虎の方が番付では上に居たが、あさって発表される新番付ではどのような位置・関係になっているのか。

多くの相撲ファンの注目・期待が寄せられる二所ノ関部屋には高卒や大卒のエリート力士だけではなく、中卒からも優秀な力士(予備軍)がいることも忘れてほしくない。
早期に関取が見据えられる番付ではないが、この林(双子)兄弟の動向には要チェックだ!

二所ノ関部屋ホームページより 好きな言葉は
兄・林龍が「実るほど頭が下がる稲穂かな」
弟・林虎が「凡事徹底」「一事が万事」「自分の持ち味を活かせよ」 とあった。

写真右が林龍(長男)左が林虎(次男)のようである↓↓↓

元横綱を肌身離さず↓↓↓

琴天太・没後17年、閃光の如き相撲人生

 やはり外国人力士が異国の地に降り立ち、その土地の風習や文化を理解し、受け入れて馴染むのは並大抵の事ではないのか。

佐渡ヶ嶽部屋に入門、序ノ口から連続優勝で頭角を表し、一躍、時の人(力士)として話題になった。廃業後、プロレスラーへ転向。引退後、2006年に42歳で早逝した琴天太ことジョン・テンタにスポットを充てる。

琴天太ことジョン・テンタは、元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、当時の佐渡ヶ嶽(元琴櫻)のスカウトを受け、大学を中退。1985年10月に来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門した。
琴天太の四股名で1985年11月場所初土俵。レスリングチャンピオンの肩書は伊達じゃなかった。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成する。(前相撲の3連勝を除けば、炎鵬や北青鵬に並ぶ大記録)
次の1986年7月場所前に、なんと愛知県の部屋宿舎を無断で飛び出して東京に戻ってしまった。後日、親方(琴櫻)が都内で琴天太と会い、戻るよう説得したが、琴天山の意志は固く、結局廃業することとなる。

琴天山は来日の2ヶ月後には「辞めたい」と申し出ていて、慰留を受けて思いとどまったが、言葉の障害や共同生活になじめないこと、食事が合わないなど、相撲生活に嫌気がさしていた。日本人の恋人ができたが、共同生活では自由に会うこともできず、「自由のない社会はいやだ」ともらすようになっていたとか、幕下に昇進して強い相手との稽古が多くなり以前より勝てなくなったこと、足にけがをしたことから将来に不安を感じていたやら、琴天山は「来日前、相撲界の古い習慣、しきたりはあまり聞かなかった」「私も相撲を知らなかったし、親方も外国人を知らなかった」などなど廃業理由を語ったそうだ。

~プロレス入り後~

結局、かねてから噂のあったプロレス入りを決意する。
1986年7月10日に全日本プロレスに入団。以後、複数団体の王座や地域タイトルを獲得した。

1991年には元横綱双羽黒こと北尾光司と対戦するが、試合内容は北尾が開始当初から組み合わずに危険行為を繰り返し、結果として北尾が試合中にレフェリーを蹴り反則負けを宣せられた。敗北後、リングを降り手にしたマイクで北尾は「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。非常に後味の悪い結果となった。

まぁ、これはなんとなく覚えてます。北尾(双羽黒)も相撲廃業後、迷走が続いてましたからね。

2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年に体調不良を機に現役を引退。

2006年6月7日、アメリカ・フロリダの地に42歳の若さで他界している。

琴天太の相撲人生は何だったのか。
ジョン・テンタのプロレスラー人生は何だったのか。
本名・ジョン・アンソニー・テンタの人生は幸せだったのか。

没後17年が経って振り返ってみた。

残暑お見舞い申し上げます↓↓↓


 

横綱・大乃国、負け越しても貫いた美学

 第62代横綱・大乃国 康

現在の芝田山親方である。大の甘党・美食家でも大きく知られており、「スイーツ親方」とも呼ばれ、本場所開催中は(両国国技館)1階廊下で親方自身がおすすめのスイーツを自ら声を出しながら、積極的に販売している姿をよく見かける。

現役(横綱)時代を振り返ると、当時の春日野理事長(元栃錦)から「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と昇進時に大きな期待を寄せられた。

しかしふたを開ければ、横綱としての重責・心労はそれまでのものと比べものにならないものだったのだろう。「睡眠時無呼吸症候群」の症状があり、立ち合いの集中力に欠き、成績がいまいち安定しなかった(横綱になって最初の2場所)

1988年~1989年5月までにかけては、2ケタ勝利をすることが多くなったが、そのあとの7月場所に右膝を痛めて途中休場。この時には合わせて全身の問診を受け、前述の「睡眠時無呼吸症候群」と正式に診断が下り、睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病で、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。

次の9月場所も、初日から1勝3敗、その後持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。
横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目、15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。大乃国は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・若乃花)から慰留されて現役を続行する。

この場所を境に、横綱・力士として完全に失速する。
左足首の靱帯断裂、その上骨折や蜂窩織炎、右膝関節を痛めて入院するなど最後までケガや病気に苦しめられた。

1991年7月場所、8日目で4勝4敗になった時点で「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。28歳9か月の若さだった。

横綱で負け越した際には、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を語っていたそうだ。

不調や黒星が続くと休場を選択する横綱大関を多くみかけるが、大乃国はそういう事を良しとせず、強いポリシーを持って横綱として土俵に上がり続け、「大乃国流」で横綱としての責任を全うしていたことになる。

振り返ってみると、
優勝:2回
横綱在位:23場所
横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662

と(横綱として)ずば抜けた実績・数字を残したわけではないが、先述したように、少しの苦境に立たされたぐらいで、休場という方法を取らず、挫けずに戦い続けたところは、評価したいというか好感が持てたな。

何より忘れられないのは、大一番に強い・名を残したこと。
千代の富士の連勝を53で止めた一番は永遠に忘れない。

大乃国とその時代を振り返る↓↓↓