突っ張りの名勝負と言えば…、蘇る!麒麟児-富士櫻

 相撲の取り口と言ったら「四つ相撲」と「突き押し相撲」に二分される。

がっぷり四つとなっての引きつけ合っての寄り、または豪快な投げを打つなどの四つ相撲も良いが、立ち合いからのお互いの闘志をぶつけ合うかのような激しい突き押し相撲も面白い。

突き押しの相撲で忘れられない取組は?と聞かれたら即答で答える一番が今でもある。

麒麟児-富士櫻

NHK中継での中入りの時間や、他のメディアでも何度となく取り上げられ紹介されてきた。

1975年5月場所の8日目、この日は天覧相撲であり、過去2回の対戦が大熱戦だったためそれに合わせて組まれた東小結・麒麟児対西前頭筆頭・富士櫻の一番は、両者54発ずつ、総計108発の激しい突っ張りの応酬もあり大いに盛り上がった。富士櫻の口の中が切れるほどの激戦で、昭和天皇も身を乗り出し固唾を呑むように勝負の行方を見守った。このため富士櫻対麒麟児はとっておきの割として重宝され、東京場所では天覧相撲の予定があればその日に対戦できるように割が組まれた。(Wikipediaより)

とされるこの一番を見てみよう。

26秒で決着のついた取組だったそうだが、こんなに濃密な突っ張りあいにはなかなかお目にかかれない。昭和天皇がこよなく愛されていたのもよくわかる気がする。

因みに、この両者の対戦成績は麒麟児の17勝9敗で勝ち越し。時間前に立ち合うこともしばしばあったそうだ。

~両者の現役時代を振り返ると~

麒麟児 

生涯戦歴:773勝792敗34休(129場所)
最高位:関脇
三賞受賞:殊勲・敢闘各4回、技能賞3回
金星:6個(輪島2回、北の湖・三重ノ海・2代目若乃花・大乃国から各1個)

富士櫻

生涯戦歴:788勝825敗45休(132場所)
最高位:関脇
三賞受賞:殊勲賞2回、敢闘・技能各3回
金星:9個(輪島・2代目若乃花から各3個、北の湖2個、琴櫻1個)

~両者の引退後~

麒麟児

引退:1988年9月場所

年寄・北陣襲名。本場所中継の解説もそうだが、特に「サンデースポーツ」の解説が好評を博す(私も大好きだった)

後年は病気・体調不良に苦しんだ。
長く大相撲中継の明快な解説で知られたが、2015年5月場所を最後に病気のため、出演しなかった。角界関係者によれば、この頃に頭部の腫瘍摘出手術を受けた影響で顔面に麻痺の症状が残ったという。そのため、現役時代の面影は薄れていたと伝わる。
私も、確か大相撲いぶし銀列伝(フジテレビのCS)だったかで、その術後だったのだろう、麒麟児(北陣親方)を見て、随分と形相が変わってしまったなと驚いたものだ。

2018年3月、再雇用制度を利用せず相撲協会を定年により退職。

2021年3月1日、多臓器不全のため死去。67歳没。

富士櫻

引退:1985年3月場所

年寄・中村襲名。

1986年7月に高砂部屋から独立して中村部屋を創設した。角界きっての人格者として知られ、弟子に対する粘り強い指導で知られた。

2013年2月8日の定年退職を控えて、2012年12月19日に中村部屋は閉鎖。その中村部屋は2013年4月(途中)から、元横綱・武蔵丸が親方を務める武蔵川部屋に引き継がれ現在に至る。

  ~麒麟児のWikipediaより~

(麒麟児)死去の際にライバルの富士櫻は1975年5月場所中日の天覧相撲の思い出を「本当に悔しかったですけど、自分の相撲を取り切ったという自負もあって、満足感の方が強かった。後でテレビを見ていたら、陛下も手を叩いてお喜びになっていました。いい思い出をありがとうと伝えたいです」と語った。
また、富士櫻が定年を前にした大相撲中継で幕内の取り組みの正面解説を務めた時には、麒麟児が向こう正面の解説者として出演し、上記の取り組みなどを踏まえて思い出を語り、労を労っている。

と、こんな感動的なエピソードも残っていた。

はるまふじとはるなふじ

 このタイトル⇧6文字目の「と」を境に前半5文字と後半5文字は、それぞれ3文字目の「ま」と「な」の違いしかない。

平仮名だけ追いかければ、何の変哲もない。

ここに「相撲」というキーワードを落とし込めば、景観はガラリと変わる。

漢字に置き換えると、前者は日馬富士、後者は榛名富士となる。

しかもこの2力士、「関取」まで名を馳せ、相撲界で成功を収めた偉大な二人だ。

前者から。
説明不要の第70代横綱である。

モンゴル国コビアルタイ出身の伊勢ヶ濱部屋(入門時は安治川部屋)に所属。

関脇時代まで「安馬」と名乗る。

幕内優勝9回
大関22場所、横綱31場所を勤め上げた。

横綱昇進前に32連勝を記録している。

137㎏の軽量ながら、持ち前の稽古熱心さと研究熱心さで、ついには横綱の地位まで登り詰めた。

その新横綱誕生となった一番の動画である。
2012年秋場所千秋楽・横綱白鵬戦。

横綱昇進後の優勝5回。
成績もそんなに大崩れすることなく、立派に横綱の地位を全うしていたように思えた。

2017年、不祥事が絡み、正直後味の悪い引き際となったが、伊勢ヶ濱部屋コーチに就任したあとの同年9月1日、故国モンゴルにて日本の文化や歴史、言語を学ぶ教育を取り入れた小中高一貫の「新モンゴル日馬富士学園」を設立し、理事長に就任している。

2023年1月28日、同郷の先輩横綱、元白鵬の宮城野親方の断髪式に参加するために来日。大銀杏にはさみを入れ、元気な姿を見せた。

対して、榛名富士。
大鵬部屋に所属した元力士。
1971年5月場所初土俵。最高位は東十両2枚目。
群馬県沼田市出身。同郷ではサーカス相撲で一世を風靡した、あの元関脇栃赤城がいる。

大鵬部屋繫がりで言えば、主に巨砲、嗣子鵬(満山)世代といったあたりか。

付いた四股名の由来は、出身地にちなんだものだろう。

            榛名富士と榛名湖

初土俵から、10年かけて十両昇進。
1985年7月場所、西十両6枚目で10勝5敗の優勝同点。
同年9月場所、東十両2枚目で新入幕のチャンスだったが6勝9敗と負け越し。

1986年5月場所、幕下に陥落。
翌1987年1月場所後に廃業、相撲界から去っている。

両人とも角界から離れてしまったが、現役時代に培った相撲精神・経験を武器に、社会人として忙しい日々を送っているのであろう。

これは自慢できます↓↓↓

正代春巡業日記 ~ツイッターから~

元大関・正代直也。
先場所(春場所)において、それまでの3場所連続の負け越しを振り払うかのように、前頭筆頭で10勝を上げ、存在を再びアピールした正代。

巡業では元気にやっているのかな?と思い、ツイッターで検索してみた。

https://twitter.com/_sumolove_/status/1643564640276992000

一部を抜粋したが、やはりファンとの交流・触れ合うものが多かった。

実力者・人気者がゆえに、サイン・写真等をお願いする人がたくさんいるのだろう。

熱烈なファン・愛好家からすれば、この機会を逃すまい。

春巡業は、今週末から後半に入り、神奈川・東京・群馬・千葉・茨城などを回ることになっている。

三役復帰当確と言ってもいいであろう、夏場所の正代。

関脇以下に予想される顔ぶれを見渡しても、(優勝争いに)つけ入る隙は十分にあると見る。

自信を持ち、焦らず自分の相撲を取りきることができれば、過言ではない。

また、感動を呼び起こしてくれ!正代。

地元新聞社発行の写真集です↓↓↓

オヤジと息子 ~佐田の海編~

 現役幕内力士の年齢順、上から5位の佐田の海(35歳)

幕内在位45場所を数えるいぶし銀の力士である。

また、親子関取としても有名。父は1980年以降関取として駆け抜けてきた人気力士であった。

今日はこの佐田の海親子についてスポットライトを当てる。

~オヤジ・佐田の海 略歴~

中学卒業後に出羽海部屋(当時の師匠、元横綱・佐田の山)へ入門し、1972年(昭和47年)3月場所で初土俵。
1978年3月場所、新十両昇進。
1980年11月場所、新入幕昇進。(同じ新入幕力士として、のちの大関・北天祐)
この新入幕の場所で初日からの9連勝の星を含む11勝4敗という好成績を収め、敢闘賞受賞。
翌1981年は、6場所中4場所を勝ち越し、(この年の)九州場所には東前頭4枚目で10勝5敗で技能賞を獲得した。
次の(1982年1月場所)には東小結に番付され、三役昇進を果たす。9日目に横綱・千代の富士に勝ち、8勝7敗で殊勲賞受賞。

通常の星勘定からすると、翌場所1つ上の関脇へとなるのだが、(当時の番付で)西小結・出羽の花10勝、西前頭2枚目で12勝の若島津が東西の関脇に振り分けられ、佐田の海は東小結に据え置かれた。
以降も何度か近い位置に番付されることがありながら、関脇昇進は成らず。

          懐かしい名前・顔ぶれである

1988年7月場所中に引退。
以後は出羽海部屋付きの親方として協会に残っていたが、1999年8月に退職。
ちゃんこ料理店「相撲茶屋 佐田の海」を大阪府東大阪市内で経営していたそうだが、肘の手術を受けてからは店は娘さんに任せてるそうだ。

もろ差しからの速攻が今でも目に焼き付いている。

                         オヤジ・佐田の海➡➡

~息子・佐田の海 略歴~

かわって、現役(息子)佐田の海の略歴。
1987年5月11日、上述した出羽海部屋所属の元小結・佐田の海の長男として生まれる。
幼稚園の頃から力士を志しており、中学卒業と同時に父から勧められた元小結・両国が師匠を務める境川部屋に入門した(本人は父が所属していた出羽海部屋に入門すると思い込んでいたらしい)2003年3月場所で初土俵。

2007年11月場所で、三段目優勝。
そこから2年以上時間を費やして、2010年7月場所に新十両昇進。栃東親子以来、14年ぶりとなる史上9組目の親子関取が誕生した。

しかし、道のりは平坦にはならなかった。
度重なるケガ(右足首脱臼骨折、左目眼底骨折)があり、再度幕下に低迷した時には付け人やちゃんこ番を務めた期間があった。

それでも腐らず稽古を繰り返すと道が開けてくる。
新入幕を2014年5月に所要66場所で果たし、これにより父と自身が史上8組目の親子幕内となった。更にこの場所を10勝5敗で終え、敢闘賞受賞。父と同じ系譜を継いだ。

2015年5月場所では、東前頭3枚目の地位で、横綱・日馬富士を破って初金星をあげるなど、8勝7敗と活躍。

現時点の最高位はその翌場所(2015年7月場所)の西前頭筆頭。

その後、またケガや病気などに苦しみ、十両に陥落すること3回。
不屈の闘志で這い上がり、去年(2022年)5月、西前頭12枚目で11勝を上げ、8年ぶりの敢闘賞を受賞。それ以降は前頭5枚目前後をキープしており、35歳は大いに土俵を盛り上げている。

右四つ寄りからの速攻相撲を得意にするスタイルは父親譲り。
土俵際での粘りがあり、逆転勝ちをものにすることもしばしば。
近年では、安美錦や旭天鵬のように40歳を過ぎても関取として活躍したレジェンドもいる。まだまだ相撲ファンに多くの感動を与えてほしい。

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古参対決の極み、天一と聡ノ富士

 令和5年春場所4日目、序二段で趣深い取組があった。

天一‐聡ノ富士。

二人に共通するキーワードは、実年齢45歳。

45歳同士の対決が実現したのである。

天一 俊哉(てんいち としや)
中学卒業後の1993年3月場所初土俵。
元・初っ切り経験者、5年程度。
最高位・西幕下10枚目

聡ノ富士 久志(さとのふじ ひさし)
高校卒業後の1996年1月場所初土俵。
現役・弓取り式担当(2期目)
最高位・東幕下55枚目

この一番を迎えるまで、序ノ口6番・序二段20番終わったあとの取組。

時刻は午前10時前後か。

相撲は、天一が一方的に押し出して勝ったそうである。

聡ノ富士は弓取り担当として、NHKの地上波によく映し出され、見覚えのある視聴者は少なくないはずだ。

一方の天一も30年に及ぶ力士生活、初っ切り歴5年を数え、巡業や花相撲・引退相撲などで天一を見掛けたファンはかなり多いはずだ。

優勝がかかってるわけでも、記録がかかっているわけでもない。
この序二段の一取組は、国技・誇り高き相撲史に何事もなく刻まれたのだった。

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