横綱・大乃国、負け越しても貫いた美学

 第62代横綱・大乃国 康

現在の芝田山親方である。大の甘党・美食家でも大きく知られており、「スイーツ親方」とも呼ばれ、本場所開催中は(両国国技館)1階廊下で親方自身がおすすめのスイーツを自ら声を出しながら、積極的に販売している姿をよく見かける。

現役(横綱)時代を振り返ると、当時の春日野理事長(元栃錦)から「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と昇進時に大きな期待を寄せられた。

しかしふたを開ければ、横綱としての重責・心労はそれまでのものと比べものにならないものだったのだろう。「睡眠時無呼吸症候群」の症状があり、立ち合いの集中力に欠き、成績がいまいち安定しなかった(横綱になって最初の2場所)

1988年~1989年5月までにかけては、2ケタ勝利をすることが多くなったが、そのあとの7月場所に右膝を痛めて途中休場。この時には合わせて全身の問診を受け、前述の「睡眠時無呼吸症候群」と正式に診断が下り、睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病で、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。

次の9月場所も、初日から1勝3敗、その後持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。
横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目、15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。大乃国は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・若乃花)から慰留されて現役を続行する。

この場所を境に、横綱・力士として完全に失速する。
左足首の靱帯断裂、その上骨折や蜂窩織炎、右膝関節を痛めて入院するなど最後までケガや病気に苦しめられた。

1991年7月場所、8日目で4勝4敗になった時点で「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。28歳9か月の若さだった。

横綱で負け越した際には、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を語っていたそうだ。

不調や黒星が続くと休場を選択する横綱大関を多くみかけるが、大乃国はそういう事を良しとせず、強いポリシーを持って横綱として土俵に上がり続け、「大乃国流」で横綱としての責任を全うしていたことになる。

振り返ってみると、
優勝:2回
横綱在位:23場所
横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662

と(横綱として)ずば抜けた実績・数字を残したわけではないが、先述したように、少しの苦境に立たされたぐらいで、休場という方法を取らず、挫けずに戦い続けたところは、評価したいというか好感が持てたな。

何より忘れられないのは、大一番に強い・名を残したこと。
千代の富士の連勝を53で止めた一番は永遠に忘れない。

大乃国とその時代を振り返る↓↓↓

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