琴天太・没後17年、閃光の如き相撲人生

 やはり外国人力士が異国の地に降り立ち、その土地の風習や文化を理解し、受け入れて馴染むのは並大抵の事ではないのか。

佐渡ヶ嶽部屋に入門、序ノ口から連続優勝で頭角を表し、一躍、時の人(力士)として話題になった。廃業後、プロレスラーへ転向。引退後、2006年に42歳で早逝した琴天太ことジョン・テンタにスポットを充てる。

琴天太ことジョン・テンタは、元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、当時の佐渡ヶ嶽(元琴櫻)のスカウトを受け、大学を中退。1985年10月に来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門した。
琴天太の四股名で1985年11月場所初土俵。レスリングチャンピオンの肩書は伊達じゃなかった。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成する。(前相撲の3連勝を除けば、炎鵬や北青鵬に並ぶ大記録)
次の1986年7月場所前に、なんと愛知県の部屋宿舎を無断で飛び出して東京に戻ってしまった。後日、親方(琴櫻)が都内で琴天太と会い、戻るよう説得したが、琴天山の意志は固く、結局廃業することとなる。

琴天山は来日の2ヶ月後には「辞めたい」と申し出ていて、慰留を受けて思いとどまったが、言葉の障害や共同生活になじめないこと、食事が合わないなど、相撲生活に嫌気がさしていた。日本人の恋人ができたが、共同生活では自由に会うこともできず、「自由のない社会はいやだ」ともらすようになっていたとか、幕下に昇進して強い相手との稽古が多くなり以前より勝てなくなったこと、足にけがをしたことから将来に不安を感じていたやら、琴天山は「来日前、相撲界の古い習慣、しきたりはあまり聞かなかった」「私も相撲を知らなかったし、親方も外国人を知らなかった」などなど廃業理由を語ったそうだ。

~プロレス入り後~

結局、かねてから噂のあったプロレス入りを決意する。
1986年7月10日に全日本プロレスに入団。以後、複数団体の王座や地域タイトルを獲得した。

1991年には元横綱双羽黒こと北尾光司と対戦するが、試合内容は北尾が開始当初から組み合わずに危険行為を繰り返し、結果として北尾が試合中にレフェリーを蹴り反則負けを宣せられた。敗北後、リングを降り手にしたマイクで北尾は「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。非常に後味の悪い結果となった。

まぁ、これはなんとなく覚えてます。北尾(双羽黒)も相撲廃業後、迷走が続いてましたからね。

2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年に体調不良を機に現役を引退。

2006年6月7日、アメリカ・フロリダの地に42歳の若さで他界している。

琴天太の相撲人生は何だったのか。
ジョン・テンタのプロレスラー人生は何だったのか。
本名・ジョン・アンソニー・テンタの人生は幸せだったのか。

没後17年が経って振り返ってみた。

残暑お見舞い申し上げます↓↓↓


 

横綱・大乃国、負け越しても貫いた美学

 第62代横綱・大乃国 康

現在の芝田山親方である。大の甘党・美食家でも大きく知られており、「スイーツ親方」とも呼ばれ、本場所開催中は(両国国技館)1階廊下で親方自身がおすすめのスイーツを自ら声を出しながら、積極的に販売している姿をよく見かける。

現役(横綱)時代を振り返ると、当時の春日野理事長(元栃錦)から「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と昇進時に大きな期待を寄せられた。

しかしふたを開ければ、横綱としての重責・心労はそれまでのものと比べものにならないものだったのだろう。「睡眠時無呼吸症候群」の症状があり、立ち合いの集中力に欠き、成績がいまいち安定しなかった(横綱になって最初の2場所)

1988年~1989年5月までにかけては、2ケタ勝利をすることが多くなったが、そのあとの7月場所に右膝を痛めて途中休場。この時には合わせて全身の問診を受け、前述の「睡眠時無呼吸症候群」と正式に診断が下り、睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病で、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。

次の9月場所も、初日から1勝3敗、その後持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。
横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目、15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。大乃国は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・若乃花)から慰留されて現役を続行する。

この場所を境に、横綱・力士として完全に失速する。
左足首の靱帯断裂、その上骨折や蜂窩織炎、右膝関節を痛めて入院するなど最後までケガや病気に苦しめられた。

1991年7月場所、8日目で4勝4敗になった時点で「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。28歳9か月の若さだった。

横綱で負け越した際には、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を語っていたそうだ。

不調や黒星が続くと休場を選択する横綱大関を多くみかけるが、大乃国はそういう事を良しとせず、強いポリシーを持って横綱として土俵に上がり続け、「大乃国流」で横綱としての責任を全うしていたことになる。

振り返ってみると、
優勝:2回
横綱在位:23場所
横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662

と(横綱として)ずば抜けた実績・数字を残したわけではないが、先述したように、少しの苦境に立たされたぐらいで、休場という方法を取らず、挫けずに戦い続けたところは、評価したいというか好感が持てたな。

何より忘れられないのは、大一番に強い・名を残したこと。
千代の富士の連勝を53で止めた一番は永遠に忘れない。

大乃国とその時代を振り返る↓↓↓

ダイエー・曙・ハンバーガー

 このダイエー・曙・ハンバーガーにたどり着く言葉・表現として「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がある。そもそも、

昭和(戦後期)の流行語とあり「子ども(を含めた大衆に人気のあるもの」の代名詞として、

  1. プロ野球の巨人軍
  2. 大相撲の横綱・大鵬
  3. 料理の卵焼きを並べたものである。 とあった。

曙が言い放ったこの言葉・フレーズは、「巨人・大鵬・卵焼き」に真似た感じの曙自身が好きだったダイエー(ホークス)とハンバーガーを前後につけたものと思われる。

曙が横綱として在位した1993年3月場所から2001年初場所までのダイエーホークスの成績として、最初の5年(1998年)は、前身の南海ホークスの末期を引きずるように下位に低迷する期間が長かったが、1999年のリーグ優勝をきっかけに常勝球団へと生まれ変わった。

曙自身力士としては、長身を活かした突き押しを武器として当時、同期だった若貴兄弟や後の大関・魁皇(現・浅香山親方)らと切磋琢磨しながら番付を駆け上がった。

1993年の3月場所に横綱へ昇進。翌年の5月に両膝を故障した後は優勝間隔が空くことが多くなり、結婚時にも個人後援会から強固に反対され、結果的に解散。引退後の相撲人生に影響を及ぼしたとされる(資金面で)

この「ダイエー・曙・ハンバーガー」は
そんな頃の曙 太郎が光り輝いていた時を象徴する言葉のひとつなのかもしれない。

好敵手・貴乃花との動画がありました。痺れる相撲の数々です↓↓↓

輝かしい横綱・曙のパズルカードはいかがですか↓↓↓

千代の富士の命日に、初顔の小錦戦を振り返る

 今日7月31日は、あの昭和最後の大横綱・千代の富士の7回目の命日に当たる。
もう7年が経ったんだなぁ。歳月が過ぎ去っていく早さを実感している。

この命日に、多大なる功績を残してくれた千代の富士の何かを振り返ろうといろいろ模索したところ、浮かんできたのがこの1番。

千代の富士ー小錦(初顔合わせ)昭和59年秋場所14日目

ハワイ・オアフ島出身。黒船襲来と恐れられた驚異的破壊力と突き押しで番付を駆け上がり、迎えた千代の富士との初顔合わせ。

※当時の千代の富士(1984年)の背景・・・休場2回と皆勤した2場所も12勝と11勝、この9月場所も9勝4敗でこの日を迎える。(千代の富士にしては)良くない、不調が続いていた時期だった。

下から下から小錦が突き上げるように押す。これが誠に強い。千代の富士、得意の前みつを引こうにも触れられない。この強力な圧力と突き押し、わずか数発で千代の富士は土俵の外へふっ飛ばされてしまった。

この敗戦を機に、千代の富士は琴風に初顔からの5連敗からの猛稽古で苦手克服したように、小錦のところにも出稽古を散々繰り返して、通算対戦成績を20勝9敗としたのであった。

この時点で千代の富士29歳、9度の優勝。ここから22回の優勝を積み重ねる大横綱に登り詰めるのであった。今にして思えば、ウルフの相撲人生で数ある転機・分岐点のひとつになったと言えよう。

この場所の幕内優勝は平幕(12枚目)の多賀竜。
当時、東京場所の常設だった蔵前国技館最後の場所。

相撲史が大きく生まれ変わる時期の思い出・エピソードのひとつだ。

常に大横綱と一緒に↓↓↓


大の里・高橋に続く二所の次鋒

秋場所の番付編成会議で二所ノ関部屋からは大の里と高橋の新十両が決まったと発表された。

(二所ノ関部屋から)次なる関取を目指せるホープと言われれば、宮城(写真・左)と嘉陽(同・右)を推したい。

名前(名字)が示す通り、2人とも沖縄出身(嘉陽自身は千葉県市川市出身だが(嘉陽の)両親が沖縄出身だそうだ)年齢も同じ24歳だが、1999年の早生まれである宮城が1学年上。出身大学も日本体育大学同士と偶然が重なる。

宮城は学生の頃から「ひねり技」で勝負を決めることがあったそうだが、目指すところは前みつを取って前に出る相撲らしい。
対する嘉陽は、突き押し相撲に勝機を見出す。

ここまでの出世状況・比較であるが、
宮城は序ノ口から初土俵を踏み(2021年5月場所)ここまで14場所中、負け越しはたった2場所。最新の名古屋場所では西幕下20枚目で4勝3敗。
嘉陽はアマチュアの実績が認められ、三段目付出(90枚目)でデビュー(2022年5月場所)ここまで8場所戦って、負け越しがこちらも2回。直近の名古屋では西幕下37枚目で5勝2敗。今年は1月から負け越し⇒勝ち越しを順繰りにきているが、秋場所はその壁を打ち破れるか。

去年6月、茨城県稲敷郡阿見町に1800坪の土地に2面の土俵とトレーニング室、建物の外には懸垂用の鉄棒や、半面のバスケットボールコートなども設置された今までにない斬新な部屋新設から丸1年が過ぎた。

大の里と高橋に次いで、大銀杏を結い、化粧廻しをつけられる十両に上がれるのはこの宮城か嘉陽か、他にも龍王と花房という幕下力士が控えている。

吉報が続く二所ノ関部屋の勢いは止まりそうにない。

お風呂・シャワーのあとは、このタオルでさっぱりと↓↓↓