鏡山部屋物語(エピソード主体で)

 元横綱・柏戸が創設して51年の歴史を持つ鏡山部屋が閉鎖して2年以上が経った。
元・多賀竜の鏡山ら協会員全員が伊勢ノ海部屋へ転属。関取として頑張ってきた鏡桜も(日本国籍などの関係もあり)10場所にわたり番付外で過ごしたのちに、今年3月場所限りで引退した。

最後はとても寂しい形で幕を閉じた鏡山部屋をエピソードを交えて振り返る。

~柏戸時代~

部屋持ちになった親方として、スパルタ指導ぶりには定評があった反面、弟子たちには門限も設けないなどの自由な側面もあった。技術指導面では思い切って前に出ることを教え、40代前半までは自ら廻しを締めて弟子に胸を貸したというのだから、スゴい!引退してから10年以上も土俵に下りて指導をしていたなんて(あと結構、寛大な方だったんですね)

柏戸が育て上げた(代表的な)関取は
多賀竜・蔵王錦・起利錦・小沼・魄龍など、懐かしい面々。
※幕内優勝した多賀竜に審判部長として優勝旗を授与。蔵前国技館最後の場所となる1984年(昭和59年)9月場所の出来事。

そんな柏戸も、1996年12月に肝不全でわずか58歳で逝去した。部屋は愛弟子の多賀竜が継承する。

~多賀竜時代~

多賀竜は協会理事を6期勤め上げた。直弟子で唯一関取は鏡桜のみ。
何より部屋経営・新弟子勧誘がうまくいかなく、最後に新弟子が入門したのは2004年(平成16年)3月場所で、2008年(平成20年)5月場所を最後に当時序二段の鏡竜が引退して以降、所属力士は鏡桜と竜勢(多賀竜の実子)の2人のみという異常事態が13年以上続いた。

2021年7月の理事会で、鏡山部屋の閉鎖と鏡山(多賀竜)ら協会員全員が伊勢ノ海部屋へ転属することが決定。これにより、柏戸が築いた鏡山部屋は51年の歴史に幕を下ろした。

翌年3月の役員改選の際には停年が近いことから理事に立候補せず、役員待遇委員に任命されたことが明らかに。今年2月の停年後も再雇用によりそのまま鏡山親方として協会に在職している(参与)

やはり、資金面と有望な新弟子を発掘する包囲網(コネやツテ)が致命的に欠落していたのか。

例え話として(比較対象の次元が(失礼だが)かなり違うが)
なぜ白鵬(宮城野親方)は、有力・有能な新弟子を現役時代から囲うことができたのか。
なぜ(どこまでホントなのかわからないが)銀座や浅草などに新部屋設立の噂が(本当かもしれないが)マスコミ・ネット上でささやかれたのか。

白鵬の引退相撲がなぜあれだけの演出・趣向を凝らすことができたのか、答えは明白だろう。

時代は巡る。
鏡山部屋再興は何十年先になるのか、あるいはほんの数年したのちにパッと出現するかもしれない。

なんにせよ鏡山(柏戸・多賀竜時代)は、こうして51年の歴史に幕を閉じた。

多賀竜がらみのレアものです↓↓↓




森永賞は秋場所も力士と観客の味方です!

懸賞とは・・・
幕内の取組で勝利した側の力士に授与される賞金。協賛企業や団体が取組を指定して提供する(手取り3万円程度)

主な懸賞提供企業として
永谷園、大関、伯方塩業(伯方の塩)、サンアグロ(千代田化成、丸ツバメ)、三光丸、クリナップ、高須クリニック、タマホーム、財宝、フローラ(HB-101、ニオイノンノ)サトウ製薬(ユンケル)伊藤園(お~いお茶)や(※5月場所で見かけた珍しいものとして)フジテレビお昼の番組・ぽかぽかなど(このフジテレビに関しては坂上忍司会MCの「バイキング」も懸賞を出してましたね)

高須クリニックは、一番(いち取組に対して)多い時に4~5本懸ける時があったと思う。
「yes!高須クリニック」「yes!yes!高須クリニック」「yes!yes!yes!高須クリニック」
現地で見ていると「yes!」のアナウンスが1個増えていく度に「ウォー」と歓声が増していくのは気のせいか。高須院長が砂かぶりのいい席で観戦に訪れているのをよく見かける。

話が横に逸れたが、この相撲の取組にかけられる懸賞でかなり以前・昔からあるのが森永製菓が協賛している森永賞。(東京場所限定)
1951年(昭和26年)1月場所から出してるらしい。
現在のように(場内の)ファン投票により懸賞を懸ける一番を決めるようになったのはその翌年の1952年1月場所からである。

参加方法・投票の仕方は、森永ミルクキャラメルやチョコレート等の森永製品の空き箱に当日の幕内の注目取組を一番選んで投票する。締切時間があって、15:30(千秋楽は15:00)まで受け付けている。投票場所は国技館1階廊下の片隅に投票箱・スペースがある(いつも定位置)
投票した観客に抽選で記念品(主に森永製品の詰め合わせ)が当たるかもしれない!
子供の頃は何回かチョコボールの空き箱(口ばしのあたり)に書いて投票をした記憶が数回ある。大人になってからは(ここウン十年、投票場所を見ては)「あぁ、あるなぁ」程度で通り過ぎる・スルー程度だ。

今度の秋場所、1回現地で観戦するので、久しぶりに投票してみようかな。

回る回る、「森永賞」懸賞旗が回る。

投票に参加しよう↓↓↓



琴天太・没後17年、閃光の如き相撲人生

 やはり外国人力士が異国の地に降り立ち、その土地の風習や文化を理解し、受け入れて馴染むのは並大抵の事ではないのか。

佐渡ヶ嶽部屋に入門、序ノ口から連続優勝で頭角を表し、一躍、時の人(力士)として話題になった。廃業後、プロレスラーへ転向。引退後、2006年に42歳で早逝した琴天太ことジョン・テンタにスポットを充てる。

琴天太ことジョン・テンタは、元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、当時の佐渡ヶ嶽(元琴櫻)のスカウトを受け、大学を中退。1985年10月に来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門した。
琴天太の四股名で1985年11月場所初土俵。レスリングチャンピオンの肩書は伊達じゃなかった。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成する。(前相撲の3連勝を除けば、炎鵬や北青鵬に並ぶ大記録)
次の1986年7月場所前に、なんと愛知県の部屋宿舎を無断で飛び出して東京に戻ってしまった。後日、親方(琴櫻)が都内で琴天太と会い、戻るよう説得したが、琴天山の意志は固く、結局廃業することとなる。

琴天山は来日の2ヶ月後には「辞めたい」と申し出ていて、慰留を受けて思いとどまったが、言葉の障害や共同生活になじめないこと、食事が合わないなど、相撲生活に嫌気がさしていた。日本人の恋人ができたが、共同生活では自由に会うこともできず、「自由のない社会はいやだ」ともらすようになっていたとか、幕下に昇進して強い相手との稽古が多くなり以前より勝てなくなったこと、足にけがをしたことから将来に不安を感じていたやら、琴天山は「来日前、相撲界の古い習慣、しきたりはあまり聞かなかった」「私も相撲を知らなかったし、親方も外国人を知らなかった」などなど廃業理由を語ったそうだ。

~プロレス入り後~

結局、かねてから噂のあったプロレス入りを決意する。
1986年7月10日に全日本プロレスに入団。以後、複数団体の王座や地域タイトルを獲得した。

1991年には元横綱双羽黒こと北尾光司と対戦するが、試合内容は北尾が開始当初から組み合わずに危険行為を繰り返し、結果として北尾が試合中にレフェリーを蹴り反則負けを宣せられた。敗北後、リングを降り手にしたマイクで北尾は「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。非常に後味の悪い結果となった。

まぁ、これはなんとなく覚えてます。北尾(双羽黒)も相撲廃業後、迷走が続いてましたからね。

2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年に体調不良を機に現役を引退。

2006年6月7日、アメリカ・フロリダの地に42歳の若さで他界している。

琴天太の相撲人生は何だったのか。
ジョン・テンタのプロレスラー人生は何だったのか。
本名・ジョン・アンソニー・テンタの人生は幸せだったのか。

没後17年が経って振り返ってみた。

残暑お見舞い申し上げます↓↓↓


 

横綱・大乃国、負け越しても貫いた美学

 第62代横綱・大乃国 康

現在の芝田山親方である。大の甘党・美食家でも大きく知られており、「スイーツ親方」とも呼ばれ、本場所開催中は(両国国技館)1階廊下で親方自身がおすすめのスイーツを自ら声を出しながら、積極的に販売している姿をよく見かける。

現役(横綱)時代を振り返ると、当時の春日野理事長(元栃錦)から「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と昇進時に大きな期待を寄せられた。

しかしふたを開ければ、横綱としての重責・心労はそれまでのものと比べものにならないものだったのだろう。「睡眠時無呼吸症候群」の症状があり、立ち合いの集中力に欠き、成績がいまいち安定しなかった(横綱になって最初の2場所)

1988年~1989年5月までにかけては、2ケタ勝利をすることが多くなったが、そのあとの7月場所に右膝を痛めて途中休場。この時には合わせて全身の問診を受け、前述の「睡眠時無呼吸症候群」と正式に診断が下り、睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病で、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。

次の9月場所も、初日から1勝3敗、その後持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。
横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目、15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。大乃国は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・若乃花)から慰留されて現役を続行する。

この場所を境に、横綱・力士として完全に失速する。
左足首の靱帯断裂、その上骨折や蜂窩織炎、右膝関節を痛めて入院するなど最後までケガや病気に苦しめられた。

1991年7月場所、8日目で4勝4敗になった時点で「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。28歳9か月の若さだった。

横綱で負け越した際には、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を語っていたそうだ。

不調や黒星が続くと休場を選択する横綱大関を多くみかけるが、大乃国はそういう事を良しとせず、強いポリシーを持って横綱として土俵に上がり続け、「大乃国流」で横綱としての責任を全うしていたことになる。

振り返ってみると、
優勝:2回
横綱在位:23場所
横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662

と(横綱として)ずば抜けた実績・数字を残したわけではないが、先述したように、少しの苦境に立たされたぐらいで、休場という方法を取らず、挫けずに戦い続けたところは、評価したいというか好感が持てたな。

何より忘れられないのは、大一番に強い・名を残したこと。
千代の富士の連勝を53で止めた一番は永遠に忘れない。

大乃国とその時代を振り返る↓↓↓

安芸乃島と臥牙丸の忘れられないインタビュー

 殊勲インタビュー・・・横綱大関に勝利した関脇以下の力士が、インタビュールームに移動して、アナウンサーと一緒に取組を振り返り、コメントする。

取組直後ということもあって、息も絶え絶えになりながら、言葉を振り絞ってやっと答える力士も少なくない。
しかし、表情や態度、言葉の端々から(どうしたって)性格や人間性が明らかになってくる。
(力士それぞれの)いろいろな個性を感じ、それが画面越しに伝わってくるのがいい。

最近では翔猿の高速インタビューが話題になってるし、何だか見ていて楽しくなってくる。

あとは、元小結で現在では自身のYouTubeチャンネルなどで大活躍中の臥牙丸のインタビューなど。

よほどうれしかったのか、自分からまくし立てるように一気に話し込んでいたのが印象的。
愛嬌があって、性格に裏表を感じない。だからYouTubeチャンネルもあれだけの人気を集めているのだろう。引退後90㎏も減量したとかで、力士時代とはまた違った「味」を出している。

~安芸乃島・個性たっぷりインタビュー~

現在の高田川親方・元関脇安芸乃島のインタビュー・受け答えが忘れられない。
無愛想な表情・ぼそっとした語り口・言葉を発しても何を言っているのか不明瞭に感じたことが多々あった。インタビュアー泣かせ、何とか言葉を引き出そうと苦労している動画がこちら。

安芸乃島のWikipediaにも書いてあるが、若い頃から「負けた力士に失礼だ」という理由で、テレビの殊勲インタビューなどでは最低限の言葉しか発せず、現役時代は批判の対象となるほどに寡黙な印象を与えていた。と、ほとんど言葉を発しない理由を現役引退後にこう話したというから(自分に負けた)対戦相手を気遣い装った態度を取っていたことになる。

しかし実際の性格は明朗快活で、引退後はテレビ解説者として饒舌な面をファンにも披露している。稀勢の里も現役引退後、堰を切ったようにしゃべるようになり、解説などで好評を博したのでその系統・先輩格か。

高田川部屋が勢いに乗っている。4人の関取に、大辻・瀬戸の海辺りが年齢も若く面白い。

元安芸乃島としての解説、高田川部屋・師匠としての采配、今後も楽しみが尽きない。

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