良き親友・良きライバル 琴奨菊と豊ノ島

琴奨菊と豊ノ島。
同年齢で同級生、奇しくも初土俵も一緒の同期生で大親友であることは、相撲ファンの間で広く知られている。

琴奨菊和弘こと菊次一弘は、1984年1月30日、福岡県柳川市で建設会社の社長をしている父の三男として生まれる。柔道の山下泰裕に影響された祖父の下、小学3年生で相撲を始め、毎日2時間の稽古を行い、隣のグラウンドで100メートルのタイヤ引きを1時間かけて40本行い、牛乳は毎日1リットル飲み、学校にはにぼしを持参という相撲の英才教育を受けた。

豊ノ島大樹こと梶原大樹は、1983年6月23日、高知県宿毛市で豆腐店を営む長男として生まれる。こちらは小学校時代、毎朝特大のおにぎり6個(米6合分)を食べて登校するなどして力士としての素養を磨いていた。

そんな2人は、「わんぱく相撲」の小学生時代からの戦友で「お互いが意識」ライバルとしてしのぎを削っていた。

中学・高校とアマチュア大会でお互いに活躍し、プロ入り。選択したのは
菊次(琴奨菊)が佐渡ヶ嶽部屋、梶原(豊ノ島)が時津風部屋だった。

十両までの道のりは琴奨菊2年半(15場所)、豊ノ島2年4ヶ月(14場所)とほぼ拮抗。

そんな2人の出世争いに変化が生じたのが2011年。
琴奨菊が初場所から関脇に定着し始めた。
その年の夏場所から、10勝・11勝・12勝で見事に大関昇進を果たしたのだ。

琴奨菊と言えばがぶり寄り。その看板・代名詞とも言える一番がこちら。

昇進伝達式で「大関の地位を汚さぬよう『万理一空』の境地を求めて、日々努力精進致します」と口上した大関在位は32場所を数えた。

その間の豊ノ島は、度々関脇・小結に名を連ねるも、そこからの厚い壁・上の番付に上がることはなかった。

琴奨菊、悲願の初優勝を2016年初場所に遂げるも、その3場所後の7月場所で古傷の左膝とアキレス腱などを痛め途中休場。翌2017年春場所には関脇へ陥落。時に33歳。

2018年以降は、三役復帰は叶わなかった。
2020年9月場所・2日目の明生戦で左ふくらはぎを痛め休場。このケガが力士人生に対して「ダメ押し」となる。
翌11月場所・西十両3枚目に下がったが現役続行。2日目に松鳳山に勝利したのみで1勝5敗と振るわず、現役引退を発表した。

豊ノ島は、2016年7月場所を目前にした稽古中に、左足のアキレス腱を断裂する大ケガに見舞われ、2場所連続で全休。番付も幕下7枚目まで後退、関取復帰まで2年を要した。
2019年にも今度は右足のアキレス腱を痛め、途中休場。このけがを皮切りにじわじわと番付を下げ、2020年1月場所・東十両11枚目の地位で4勝11敗の負け越し、引退を示唆したがこの時点で7歳となる愛娘に「お相撲さんでいてほしい。普通のお父さんになってほしくない」と言われて再起を決意するも、翌3月場所・東幕下2枚目で2勝5敗と負け越し。
場所後に引退を表明した。
自身の引退に際して「悔いはありませんけど、あるとすればもう1回、菊(琴奨菊)とやりたかった」とコメントした。

琴奨菊は年寄・秀ノ山を襲名。近い将来に独立し、部屋開設の準備中であると聞く。

一方の豊ノ島は年寄・井筒を襲名したが、今年1月に相撲協会に退職届を提出。
現在は、タレントとして活躍。現役時代からバラエティ番組に出演時にものまねや軽妙なトークのやりとりで人気を博していたその才能が生かされてるようだ。

琴奨菊と豊ノ島。
わんぱく相撲からの対決や、相撲人生での紆余曲折の重なり合った偶然は何を意味するのか。
今後の2人の活躍ぶりをしっかりと見届けたい。



愛知県出身の名力士・鳳凰倶往

7月・名古屋場所に因んで。

鳳凰倶往(ほうおう ともみち)

愛知県蒲郡市出身、二所ノ関部屋所属。

1971年秋場所初土俵
1990年夏場所引退
同世代の関取(主な顔ぶれ)としては、麒麟児・大徹・大善といったところか。

うん。鳳凰、懐かしいなぁ。

愛知県出身ということで、出てきた慕わしい四股名。

みかんや新鮮な海の幸が豊富に獲れる街で知られる蒲郡出身の元関脇・鳳凰。

1978年夏場所から、47場所連続関取。最高位は東関脇(1984年7月場所)

三賞とは縁がなかった。最高位が関脇の力士で、三賞を受賞できなかった力士は鳳凰のみ(びっくり(◎_◎;)しかし、金星は3個記録している(2代目若乃花2個、千代の富士1個)

当時の二所ノ関部屋関取の立ち位置としては、麒麟児と大徹の間に挟まれたやや地味な存在のように思われたが(失礼)実力派よろしく(昭和以降)歴代2位タイの十両優勝4回を記録している。

因みに1位が益荒雄の5回
2位タイの顔ぶれが、鳳凰の他に、若の里(西岩親方)・小城ノ花(出羽海親方)・大錦(元年寄・山科)・播竜山(元年寄・待乳山)・朝登(元年寄・東関)などビッグネームが並ぶ。

1990年5月場所限り廃業後、サラリーマンや間垣部屋でコーチをしていた時期もあったとか(2代目・若乃花が親方だった頃)

2013年1月に56歳で亡くなっている。

私の小学校・中学校・高校時代に関取として君臨していた鳳凰。

彼もまた忘れられない力士の一人である。


苦手力士克服法・ウルフ編

 ウルフこと千代の富士の平幕時代、苦手にしていた力士が琴風(現・年寄尾車)で、初顔から5連敗したのは有名な話。

そこから毎日のように琴風の佐渡ケ嶽部屋へ出稽古に訪ね、琴風が別の部屋へ行けば、そこへ行き胸を合わせた。

毎日毎日繰り返し、(琴風との)三番稽古に明け暮れた。

ついに6度目の対戦では初勝利を挙げ、それを機にその後はほとんど千代の富士が勝利した(通算で千代の富士の22勝6敗)

琴風戦の中でも出色の一番。

~ウルフ式・横綱になるには、居続けるには~

「負ければ、不安なんだよ。もう勝てないんじゃないかと思うぐらい追いつめられるんだよ。」
「負けた夜は食事に行っても気持ちはうわの空で、明日、勝てるのか。オレはこのまま終わってしまうんだろうか。そんなことばっかり頭の中をグルグル回ってるんだよ」

この相撲に対する意識・考えが通算勝利1045勝の礎だった。

「だから(稽古を)やるんだよ。やるしかないんだよ。不安を打ち消すには稽古しかない。自分を追い込んで納得するまでやる。そうすると、ここまでやったんだから負けるはずないって、思えるようになる。そこまでやらないと土俵には上がれない」

ぐうの音も出ない、出来そうで出来ないシンプルで完璧な理屈。

小錦に対しても同様。

1984年9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように、場所後に「小錦対策」として高砂部屋に出稽古を開始し、翌場所から対小錦戦で8連勝を記録した(通算でも20勝9敗)

これだけの稽古量で苦手力士の対策を体に擦りこませ、大胸筋や上腕三頭筋も鍛えることが出来ると言われる腕立てを1日500回。失敗や挫折から学んだ健康管理意識も高かったのだろう。

幕内優勝31回(歴代3位)、53連勝(昭和以降歴代3位)、角界初の国民栄誉賞を受賞した昭和最後の大横綱の積み重ねた努力、血と涙と汗の結晶は常人には想像もつかない段階だった。

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久しぶりの貴闘力部屋

 しばらくぶりに貴闘力部屋を見た。

(理由は)サブタイトルに【引退】逸ノ城が焼肉ドラゴで働きたいと言って来たら?力士のセカンドキャリアはオレ達に任せろ!とあったからである。

(タイトル前半部分)「ちょっと妄想が強すぎるだろ」「冗談にも程がある」と思ったが。

結局視聴者の興味をそそる、引きつけるタイトルだったみたいで、そこから(逸ノ城の)話に広がりや発展はありませんでした(1分ぐらいでその話題は終わりましたね)

力士の第2の人生(セカンドキャリア)って言ったら、やっぱりちゃんこ屋、焼肉屋など飲食店を経営・従事する者が大半だろう。

あと現実的なものとして(大きな体・体力を活かせる)という点では、整体師(マッサージ師)という道もある。元・三杉里は専門学校で2年学んだあと、中国で漢方医学などを学んだあと開業した。

介護業に転職し、その体格と体力を武器にして活躍する元力士も最近では多くいるようだ。

プロレスラーや格闘家に転向した者も今まで何人もいるが、本当に成功したと言えるのは、ごく一握りだと思う。歳を重ねる一方で、ダメージを蓄積する、癒すその作業も並大抵なものではないだろう。

会社員(サラリーマン)として働く者も(業種・職種問わず)少なくないのではないか。

共通して言えること(成功への道)ってなんだろう。

①まず、目の前(与えられた)仕事をひとつずつ覚えて、それを積み重ね繰り返すことで、仕事に慣れて、「できる」「任せる」という評価を勝ち取ること。

②それを継続しながら、その職場・雇用先を(できれば)辞めないこと。

③(個人でやるにしても)いろんな人と関わるのは不可避だから、いつでも謙虚に振る舞い、感謝の気持ちを忘れないこと(相手に伝えること)

④それに伴う礼儀と恩義を忘れないこと。

人間関係の摩擦や理不尽・不条理なことを乗り越えていける強さを自らに宿し、さらに辛抱・我慢を続けていけば、しばらく経ったのちに、明るい光が徐々に差してくるのかな。

15や18で力士になり、頑張って頑張って5~6年から7~8年(力士を)やったとして(最高位が)序二段や三段目で終わったとする⇒(世の中・一般職に投げ出されたとして)
それはそれで胸を張ってほしい。(他業種)に行っても耐える力は絶対に備わってると思います。

人生の勝ち組・勝利者って何なんですかね。

随分、主題(テーマ)とずれましたが、貴闘力チャンネルを見てふと思いました。

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太寿山の花籠人生

 つい先日に当ブログで、元横綱・稀勢の里が師匠を務める二所ノ関部屋を取り上げた。
主旨としては、茨城県・阿見町の広大な土地に、新部屋を興した斬新なアイデアという旨のもの。

で、思い出したのが現・花籠親方(元太寿山)が、現役引退後、二子山部屋から分家独立したこと(一都三県以外に部屋を構えたという意味で)

背景としては、

11代花籠(元前頭・大ノ海)の次男は山梨県上野原町で不動産開発会社の代表を務めていたが、当時は閉鎖となっていた花籠部屋を再興するため、相撲関係者ではない人物に渡っていた花籠名跡を億単位の金を支払って入手した。しかし年寄名跡を襲名継承するのに必要な資格はないため、自ら花籠部屋を継承運営することはできなかった。

11代花籠の弟子である10代二子山(初代横綱・若乃花)は、事情を知ると自らの弟子で二子山部屋の力士であった太寿山を花籠部屋の後継者として推薦し、次男は自らの会社の本拠地である山梨県上野原町での相撲部屋開設を条件として名跡を譲渡した。これにより1992年、15代花籠(元太寿山)により花籠部屋が開設された。しかし他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障があり、1996年12月に部屋を墨田区両国に移転。これに反発した11代次男は年寄名跡の返還を求める民事訴訟を起こしたが、1998年9月、裁判は15代側が勝訴して決着した。(Wikizeroより)

この事実。
当時、何で山梨県(東京寄りの上野原)に相撲部屋を持つのかなと思っていましたが、こういう事だったんですね。中央線と総武線を乗り継いでも(電車に乗ってる時間だけでも)両国まで、1時間30~40分ちょっと。プラス徒歩の時間を入れればどのくらいの時間になるものか。

結果、あえなく4年で撤退(両国に移転)
訴訟まで起こされ、難しい問題に発展したそうだが・・・。

しかし、そこから16年後の2012年。
またも経営難を理由に(当時の)花籠部屋が閉鎖されてしまった。
当時所属していた十両荒鷲ら力士10人や行司、呼び出し、床山が同じ二所ノ関一門の峰崎部屋に移籍。太寿山(花籠)自身も峰崎部屋付きになった。

その峰崎部屋も、2021年に7代峰崎(元幕内・三杉磯)が定年退職するにあたり、同じ二所ノ関一門の高田川部屋に再移籍。流転の相撲人生か。

現在の花籠(太寿山)は、相撲協会理事(教習所長・危機管理部長・コンプライアンス部長・博物館運営委員)として活躍。定年まであと2年を切っている。

あの元関脇・太寿山です↓↓↓