目と目で通じ合う北の湖と北天祐

 第55代横綱・北の湖は、24回の幕内優勝を記録している。
時勢柄、輪島や貴ノ花、2代目若乃花や千代の富士他、錚々たる顔ぶれを破って手にした優勝回数である。中でも、最後の優勝となった24回目の優勝(1984年(昭和59年)5月夏場所)を決めたシーンは印象深い。

ひとつ前の23回目の優勝から数えて、2年4ヶ月(14場所ぶり)の優勝、ケガも重なり、ピークを過ぎていて、現役時代も末期に差し掛けていた頃だった。

全勝で決めたこの優勝は、北の湖を脅かすほどの対抗馬になる好成績力士がいなく、結果を言えば13日目で決まった。その13日目、北の湖は千代の富士との横綱対決を制し、負けた千代の富士は3敗に後退。そのあとの結びで同じ三保ヶ関部屋の北天祐が横綱・隆の里に挑み、引き落としに破り、隆の里は3敗に後退。星の差「3」が付きこの時点で北の湖の優勝が決まった。
先に取組を済ませ、土俵下の控えから立ち上がった北の湖と視線を交わし、一瞬、笑顔になった北の湖の表情が忘れられない。

同部屋の大関、弟弟子・北天祐の援護射撃は何より嬉しかったろう。その夜は美酒に酔ったのではないか。

北の湖復活かと思われたが翌場所11勝4敗。そのあとケガによる途中休場が2場所続いて、その翌場所1985年(昭和60年)初場所(両国国技館こけら落とし)の場所で、それまでのケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかったが、当時理事長の春日野(元横綱・栃錦)から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。初日・旭富士、2日目・多賀竜と連敗。引退を表明した。
(北の湖、現役最後の一番・多賀竜戦)

こうして一時代を築いた大横綱・北の湖敏満は、東京場所の大相撲興行の常設会場移転と共に現役生活の幕を閉じた。

現役最後の一番(引導を渡したのも)現役最後の勝利も、蔵前国技館最後の幕内優勝者だった多賀竜というのは、何かの奇縁か。

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やんちゃ力士列伝 板井と孝乃富士

 昨日からの続きで。

北天祐の優勝に終わった1985年(昭和60年)7月場所の星取表を下にたどっていくと(当然だが)懐かしい名前がお目にかかった。

とりわけ「問題児的」な名前に遭遇した。
「板井」「孝乃富士」 この2人はよくない話を世間に提供した、特に引退後。

~板井圭介~

あの「板井」
突き押しの「板井」
大乃国キラーの「板井」 である。

この 1985年7月場所の板井は、東前頭7枚目で7勝8敗と負け越している。
大乃国キラーとなるのはこの後で(大乃国戦での)3個の金星、最高位の小結に在位されたのもこのあとのことだった。

虚言癖・素行不良・稽古態度の悪さ など部屋の師匠や他の親方(年寄)は苦労したらしい。

あとは今年1月7日投稿分に詳しく書いた。

~孝乃富士忠雄~

調べてみたら、この孝乃富士は「花のサンパチ組
※昭和38年(1963年)生まれの力士たちのことを指す。代表的には(当時の)四股名で
双羽黒・北勝海・寺尾・琴ヶ梅など。
元々根っからのギャンブル好きで借金苦に陥っていたこともあり、ついたあだ名が「借金王」素行不良も重なって家族とも離縁、第2の人生として選んだプロレスラー(安田忠夫)としても所属団体を追われたり、トラブルが絶えなかった。
現在は、2016年から警備会社の契約社員として働いていて、去年12月に行われたアントニオ猪木追悼興行に元気な姿を見せたそうだ。

力士時代の主な実績として(十両2場所目の)1985年7月場所は、西十両13枚目で6勝9敗と負け越し。幕下陥落(2場所)のあと関取復帰。39場所連続で関取を守った(最高位・小結)
敢闘賞1回、金星を双羽黒から2個挙げている。

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北天祐・千代の富士戦、名勝負には理由があった

 北海の白熊こと元大関・北天祐。
入門時から大きな期待が寄せられ、「末は大関、横綱」「双葉山の再来」「未来の双葉山」とも称される。
またその端整なマスクから女性からの人気が高く、当時としては珍しく女性ファンから黄色い声援が上がっていた。

当時の北天祐ー千代の富士はホントにいい相撲・好勝負が多かった。
なぜか?どこまで本当かわからないが、理由や背景があったようだ。
ひとまず今日取り上げるこの取組は1985年7月場所13日目のものである。
時間前の痺れるような激しいにらみ合いから。

がっぷり四つでの力強い引きつけ合い、北天祐が千代の富士の上手を切りにいったり、外掛けを仕掛けたが未遂に終わる。最後は千代の富士が引きつけて勝負に出たところを踏ん張り、逆に力を溜めて豪快に吊り出してみせた。息をもつかせぬ白熱の一番だった。

ちなみにこの場所の優勝は、北天祐で13勝2敗の成績で挙げている。
この千代の富士戦の1勝で、対戦成績を(北天祐の)11勝12敗とするが、どういう訳かこの一番を機に千代の富士にほとんど勝てなくなった。北天祐・千代の富士の最終対戦成績は(北天祐の)14勝33敗となっている。

~北天祐の弟・富士昇~

さて、この二人の対戦が面白い相撲・いい勝負となる理由・背景の一部として挙げられることは・・・。
当時・北天祐の弟が九重部屋の力士だった。四股名「富士昇(ふじのぼり)」が千代の富士らを始めとする兄弟子連中が、富士昇に対して「かわいがり」の度が過ぎた版というか、殴る蹴るのプロレス技を駆使したとかで失明寸前までいったとか。
勿論、ここまでの事態に発展するには富士昇(北天祐弟)にも悪いところ・落ち度があるわけで。どうやら「生意気」「素行の悪さ」が重なったとされる。

知恵袋に書いてあったことを一部抜粋すれば、
富士昇(北天祐弟)は新弟子の頃から超の付く生意気だった。北天祐の弟をいい事に、門限破りや、大部屋での窃盗、親方への慣れ慣れしい態度は、兄弟子達の堪忍袋も限界に達して<か〇い〇り>に発展したと言われている。 事態はこれだけでなく、兄の後援会に金品をたかるなどしていました とあった。

そういった事が理由・背景とされて、北天祐は千代の富士戦に並々ならぬ闘志を燃やしていたとある。富士昇は、1982年7月場所限りで引退している。最高位は東三段目37枚目。現在の消息はわからなかった。

北天祐も千代の富士も鬼籍に入っている。
弟の件はさておき、この一番は熱狂した。何度見直しても手に汗握る。

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野村(元・出羽の花)を振り返る

 日大卒。「学生横綱」タイトル獲得で鳴り物入りでデビューした「野村」にも挫折があった。幕下60枚目付出デビューの場所を負け越し。

プロの土俵、角界の水は甘くなかった。
所要8場所目での新十両(この場所から「出羽の花」)新入幕へはそこから15場所を要し、1977年11月場所で成し遂げた。この時間経過の間に何かを掴んだのか、引退までの62場所連続で幕内に在位する。

得意な形としては、前みつを引いての寄り、出し投げなどで上位を苦しめた。

愛称である「鉄の爪」が生かされた2番。
1982年3月場所7日目 対大関・琴風戦

同じく1982年3月場所9日目 対横綱・若乃花(2代目)
鉄の爪で当時の横綱・若乃花をちぎって捨てるかのような上手投げで勝った相撲。

初代・若乃花が師匠時代の二子山部屋勢、貴ノ花(貴乃花のオヤジ)若嶋津・隆の里にはいい戦績を残している。

1988年1月場所限り引退。
引退後は、年寄・出来山として出羽海部屋付きの親方として後進の指導に専念。
理事も1期(2年)務めた。2021年5月場所限りで相撲協会を退職。現在72歳。穏やかな日々を送っているのだろうか。

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1960年前後に存在した三賞に匹敵する賞とは

 昨日の「豊山3代」投稿で初代・豊山を調べていたら「雷電賞」という言葉に出くわした。

雷電賞

意味合いとしては、読売新聞社から贈られていた賞で、選考委員会の決議で決まる三賞とは異なり、関脇以下で最高成績をあげた力士が自動的に受賞する。また同成績の場合は決定戦を行わず番付上位の者が受賞となる。

1955年3月場所から制定され、1965年11月場所まで続いた。
最多受賞者は時津山・羽黒山(=安念山)・豊山(初代)・鶴ヶ嶺(福園3兄弟の父)の4回。 とビッグネームが並ぶ。

この表彰は、権威あるものとして受け止められ、三賞受賞者の記念撮影のときにも、三賞受賞者のなかで雷電賞も受賞した者は、軍配をかたどり、その上に雷電の手形を浮き彫りにした記念楯(歴代受賞者が刻まれたプレートが貼られる、持ち回りのもの)を並べて撮影することがならわしとなっていた。

Wikipediaにはいろいろ詳細が書いてあり、私自身が生まれる前のことで全く知らず初めて知りました。

雷電 爲右エ門(らいでん ためえもん)
西暦1800年前後にかけて(江戸相撲で)活躍した元大関(雷電てよく聞くんですけど、調べたら最高位が大関だったんですね)
現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

雷電の画像です↓↓↓

200年以上も前の話で、大相撲の興行形態などだいぶ異次元な話・感覚が多いのですが、こうして語り継がれ、一時的にも四股名をつけた賞が存在するぐらいの凄い力士だったのでしょう。

雷電賞=関脇以下の優勝力士

という解釈でいいのでしょうか、またひとつ学びました。

雷電の創作絵本、面白そうです!↓↓↓