「豊昇龍の多彩な足技+宇良のアクロバットな動き÷2=栃赤城」
だいぶ無理があるか。
1980年前後に「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。
36手に及ぶ決まり手。
今でも語り継がれることの多い栃赤城は・・・、
1954年10月31日、群馬県沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として生れた。
高校では柔道部に所属し、国民体育大会に出場。この時に体重は既に100㎏を超えていたことが春日野親方(元横綱・栃錦)の目に留まり再三勧誘され、春日野部屋へ入門することとなった。
順調な出世を遂げ、1976年11月場所に22歳で十両に昇進。
1977年5月場所の新入幕昇進を機に「栃赤城」に改名。
この四股名は、故郷の名峰・赤城山にちなんだものである。
さぁ、ここから七変化の如く華麗なる技・相撲っぷりを紹介する。
最後の最後の一番に、すごいすごい取組が収録されていた。
同じことを言うようだが、足技の数々に豊昇龍を想起させ、
腕を巧みに使った(主に)小手投げ・とったり・逆とったりなどの技に宇良を思い返す。
技を繰り出すタイミングの見極め、カンがいいですよね(偉そうですみません)
~力士として~
逆転技に頼った相撲で多かったせいか、自身の体に次第に影響を及ぼしてくる。両足首のケガで大関への昇進は成らず、稽古嫌いであった上に、食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙(ヘビースモーカーとして知られていた)など自己管理の甘さも大成を妨げる形になった。
また、糖尿病も患いこの事も番付降下の一因とされている。
その後は、4年以上も幕下で相撲を取り続けたが、1990年3月場所限りで「廃業」
人付き合いが苦手で、ほとんど(タニマチ・後援者と)付き合わなかったことが、年寄株取得に至らなかったとされる。
~相撲界廃業後・ゴルフ場での急逝~
廃業後は実家の呉服店を手伝っていた。
1997年8月、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、やがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後に死去した。42歳の早世だった。死因は急性心筋梗塞であったという。
どこまでもマイペースで異端児的な生き方を全うした、栃赤城。
あり余る素質とセンスに埋もれたことが、早逝の運命を引き寄せたか。
いや、これも栃赤城流サーカス的な生き方なのかもしれない。
面白そうなDVDです。もちろん本人(栃赤城)も名を連ねてます↓↓↓