貴乃花光司の父、「角界のプリンス」こと貴ノ花利彰。
美男力士として知られ、女性人気も高かった。痩身・そっぷ型で下半身に驚異的な粘りがあり、強靭な足腰であるがゆえに「行司泣かせ」な力士であった。
角界入門前は水泳選手として名を馳せ、将来のオリンピック候補選手だったのは有名な話。
水泳ではメダルを獲得しても経済的に恵まれるような時代ではなく、体の大きな若者がスポーツで身を立てるなら、野球か相撲ぐらいしか選択肢がなく、22歳離れた兄である勝治(初代若乃花)は兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。
本名の「花田 満」で初土俵。
兄から師匠へと立場の変わった二子山(初代・若乃花)は、「弟だから甘くしている」と言わせないため、二子山は花田にわざと厳しく接していた。その甲斐あってか、初土俵から17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立。初の負け越しを記録した18場所目は東十両10枚目に番付されており、初土俵から3年間負け越し知らず。その後も着々と番付を上昇。猛稽古で鍛え上げられた肉体と精神は噓をつかなかった。1972年11月場所で大関昇進。
ここから今までとは違った苦労があった。大関であることがゆえ常勝・優勝争いが求められるが、2ケタ勝利が容易でなくなってきた。(大関としての)初の2ケタを勝ち取るまで9場所かかる。
初優勝を遂げたのは、1975年(昭和50年)春場所の事だった(大関在位15場所目)この場所の貴ノ花は4日目に荒勢に負けただけで、千秋楽を迎えるまで13勝1敗で駆け抜けた。その千秋楽で横綱・北の湖と対戦し寄り切りで敗れ(この2人による)優勝決定戦に持ち込まれた。この本割りと決定戦が収録された動画があった。
貴ノ花が勝利した瞬間、熱狂した観客からの座布団が乱れ飛び、拍手と歓声が鳴りやまなかった。
横綱昇進への機運が高まったが、翌場所9勝止まり。その翌場所は肝臓炎・慢性腸炎により4日目から途中休場(0勝4敗11休)、かど番で迎えた次場所・昭和50年9月場所は12勝3敗を挙げ、またもや北の湖との優勝決定戦に持ち込まれた。
両者引きつけ合った末、土俵際での貴ノ花の上手投げが決まり、貴ノ花2度目の優勝成る!
しかし、歓喜の時間は今回も長く続かなかった。翌場所は勝ち越すのがやっとの8勝7敗で終わる。
貴ノ花の幕内優勝は結局この2回のみ。
この頃から腎臓病や足のケガに悩まされていたそうだ。
9勝6敗が多かったことから「クンロク大関」などと揶揄されたりもしたが、不平不満を口にせず、ケガや病気との戦い、満身創痍で戦っていたわけだ。
貴ノ花にとってこの昭和50年は、大関時代(力士人生)の最初で最後の輝きだった。
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