激しい突き押しで相手の圧力を止め上体を起こし、逆に相手が攻め返そうとする意思を即座に察知し、抜群のタイミングで叩き込む。この職人芸で最高位・関脇まで登り詰め、力士としての立ち処を確立したのが舛田山(現役時代・春日野所属)である。昭和50~60年代の名力士の一人だ。
石川県七尾市出身。
中学時代から相撲を始め、高校横綱。拓殖大学進学後も全国大会決勝まで残るなど活躍した。
熱心に勧誘してくれた春日野部屋に入門を決意、時に1974年3月。同期には後に出羽の花となる野村(日大卒)がいる。
さて、このオリジナリティ溢れる取り口は相撲キャリア当初からのものではなく、ケガが転機となった(私が相撲好きになった子供の頃には「叩き一筋」という印象があったが違うんですね)1981年の秋場所で左足の腿腱筋を断裂する大ケガに発端する。
これを機に徹底的に叩く相撲を取るようになった。
1983年7月場所には2年半ぶりに小結に返り咲き、9日目に天下の横綱・千代の富士を引き落としで破った。この場所、殊勲賞を獲得。翌場所では最高位となる関脇まで番付を上げた。この辺りが舛田山力士人生のクライマックスか。
1987年7月場所では36歳3ヶ月で十両優勝(現在でも最年長記録)を果たす。これが最後の輝きとなった。
38歳まで現役で取り続けられた理由は若い時の稽古の積み重ねによるものだと回想する。
引退後は年寄・千賀ノ浦を襲名し、春日野部屋の部屋付きとして後進の指導に当たったが、2004年9月場所後に分家独立して千賀ノ浦部屋を開設した。
育てた関取は舛ノ山。
ここから調べたら、舛ノ山が新十両を決めた2010年11月場所の他の新十両力士は、髙安・明瀬山・剣武とすごい名前があった。
舛田山の故郷、能登半島地震で被災した七尾市の桜は現在満開であると聞く。
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