玉の海の横綱力と人間力

 現在のNHK大相撲中継専属解説者の一人である北の富士の現役時代の好敵手(ライバル)と目された51代横綱玉の海。残念にも現役中に志半ばで亡くなったが、横綱在位中の抜群の成績と、人間味あふれるエピソードをいくつか紹介したい。

新十両まで4年余り、新入幕までは初土俵から丸5年と順調な出世街道を歩む。

休場につながるようなケガもなく、大関昇進をそこ(新入幕)から3年足らずで成し遂げた。

昇進後の一年は、いずれも勝ち星が10勝に届かずに苦労したが、右四つからの投げ技や吊り技、双葉山の再来とまで言われた「後の先」の立ち合いで、2ケタの勝ち星を安定してつかむようになった。

後の先(ごのせん)とは・・・立ち合いで遅れて相手を受けて立つように見えながらも、実際には相手を制し先手を取ること。

雄大でスケールが大きい(立ち合い・相撲展開)と受け止めればいいんですかね。

師匠・片男波は、玉の海へ特に厳しく指導したとされ、(期待の証だったのだろう)大関時代に門限を破った罰として殴ったという逸話が伝えられている。

またこの頃から、師匠の指示によって神宮外苑の芝の上でランニングを行うようになった。
のちに貴ノ花や輪島も玉の海に見習い、取り入れたとされる。

1969年9月場所からの3場所を13勝(2度目の優勝)・10勝・13勝の成績を挙げて、1970年1月場所後に悲願の横綱昇進を果たした。
(この場所優勝した北の富士とともにダブル昇進)

~驚異の成績・横綱時代~

ここからが凄かった。

横綱時代の成績、在位10場所で優勝4回、130勝20敗 勝率86.7%を記録した。
横綱在位中のこの勝率は、昭和以降では双葉山、白鵬にに次ぐ第3位であり、病魔に冒されなければどんな偉大な横綱になっていたことか。

横綱3場所目の9勝を除いた(星の移り変わりは)13⇒12⇒14⇒14⇒14⇒14⇒13⇒15⇒12と超絶の勝ち星。

「北玉時代」と評された、北の富士との横綱同士の対戦成績は、北の富士の6勝4敗とほぼ拮抗。通算でも22勝21敗北の富士が1勝リードで完結した。

2人の対戦の動画の中から、玉の海最後の優勝(全勝)となった1971年7月場所の両雄の激突。

玉の海の渾身の寄りと、取組直後の両者がお互いの目を見合わせて健闘をたたえ合うような仕草が清々しかった。

~病気発症から~

この場所の前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなる。

大鵬の引退相撲では、太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川の引退相撲にも出場した。玉の海は出場後直ちに入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調だった。

ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。27歳だった。急逝後、遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急逝冠症候群及び右肺動脈幹肺血栓であることが判明し、右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。

玉の海の死に角界には衝撃が走り、最大のライバルかつ親友だった北の富士は、巡業先で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、「むごい……。あまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目もはばからず号泣したそうだ。

今年10月で没後丸52年を迎える。

こんな大横綱の現役時代に立ち会ってみたかったな。

玉の海を始め当時の名力士が掲載されてます↓↓↓

栃赤城七変化

 「豊昇龍の多彩な足技+宇良のアクロバットな動き÷2=栃赤城」

だいぶ無理があるか。

1980年前後に「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。

36手に及ぶ決まり手。

今でも語り継がれることの多い栃赤城は・・・、

1954年10月31日、群馬県沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として生れた。

高校では柔道部に所属し、国民体育大会に出場。この時に体重は既に100㎏を超えていたことが春日野親方(元横綱・栃錦)の目に留まり再三勧誘され、春日野部屋へ入門することとなった。

順調な出世を遂げ、1976年11月場所に22歳で十両に昇進。

1977年5月場所の新入幕昇進を機に「栃赤城」に改名。
この四股名は、故郷の名峰・赤城山にちなんだものである。

さぁ、ここから七変化の如く華麗なる技・相撲っぷりを紹介する。

最後の最後の一番に、すごいすごい取組が収録されていた。

同じことを言うようだが、足技の数々に豊昇龍を想起させ、
腕を巧みに使った(主に)小手投げ・とったり・逆とったりなどの技に宇良を思い返す。

技を繰り出すタイミングの見極め、カンがいいですよね(偉そうですみません)

~力士として~

逆転技に頼った相撲で多かったせいか、自身の体に次第に影響を及ぼしてくる。両足首のケガで大関への昇進は成らず、稽古嫌いであった上に、食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙(ヘビースモーカーとして知られていた)など自己管理の甘さも大成を妨げる形になった。

また、糖尿病も患いこの事も番付降下の一因とされている。

その後は、4年以上も幕下で相撲を取り続けたが、1990年3月場所限りで「廃業」

人付き合いが苦手で、ほとんど(タニマチ・後援者と)付き合わなかったことが、年寄株取得に至らなかったとされる。

~相撲界廃業後・ゴルフ場での急逝~

廃業後は実家の呉服店を手伝っていた。

1997年8月、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、やがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後に死去した。42歳の早世だった。死因は急性心筋梗塞であったという。

どこまでもマイペースで異端児的な生き方を全うした、栃赤城。

あり余る素質とセンスに埋もれたことが、早逝の運命を引き寄せたか。

いや、これも栃赤城流サーカス的な生き方なのかもしれない。

面白そうなDVDです。もちろん本人(栃赤城)も名を連ねてます↓↓↓

友綱偉人伝・戦闘竜 扁利

 去年2月、11代友綱(元関脇・旭天鵬)と5代大島(元関脇・魁輝)は年寄名跡を交換したことにより、61年の歴史に幕を下ろした友綱部屋。

所属していた関取も、特に10代(元魁輝)が育てた「魁」系の大関・魁皇、関脇・魁聖、十両・魁道などを中心とした個性的な顔ぶれが揃う。

また、2012年4月からは、当時の大島部屋の師匠(元大関・旭國)の定年により、力士・行司らを引き取った。により括りが変わるが、当時の「旭」系の関脇・旭天鵬、前頭・旭秀鵬、旭大星なども厳密に言えば(一時的に)入ります。

中でも今回は、アメリカ本土出身初の関取、引退後もプロ格闘家としても活躍した戦闘竜 扁利(せんとりゅう へんり)を取りあげる。

米軍のコンピューター技術師の父と、日本人の母の間に1969年7月16日、戦闘竜扁利ことヘンリー・アームストロング・ミラーは、東京都立川市に生まれ、6歳まで日本で暮らした。

1975年にアメリカミズーリ州セントルイスに転居。高校までを暮らす。

1987年に高校卒業後、親戚に勧誘され再び来日。

長年居住したセントルイスにちなんで「戦闘竜(せんとりゅう)」の四股名で1988年7月に友綱部屋から初土俵。

1994年11月場所に念願の十両昇進を果たす。

しかし、以降はひざや肩などのケガが続き、帰国も考えるほど心が折れかけたが、同部屋の親友・魁皇からの熱い説得を受け奮起。ついに2000年7月場所に悲願の新入幕を手にした。

ちなみに魁皇とは、彼(魁皇)が初優勝した時も、言葉を交わす事なく握手し抱き合い涙を流すほど信頼しあう仲だった。

強烈な突き押しを武器に幕内在位3場所、最高位は西前頭12枚目。

2003年11月場所、西幕下5枚目で2勝5敗で負け越したのを機に、15年に渡る力士生活を引退した。

通算成績:351勝253敗77休 
現役在位:93場所

各段優勝
幕下優勝:1回 (1999年5月場所)
序ノ口優勝:1回 (1988年9月場所)
を記録している。

~格闘家に転向~

翌2004年にプロ格闘家に転向し、PRIDEやHEAT興行などで活躍。

同年10月14日、マル・”ザ・ツイン・タイガー”と対戦し、KO勝ち。転向後、初勝利を挙げた。試合後、リング上で「相撲は強いんだよ!」とマイクアピールした。

2013年8月25日、引退試合となったDEEP 63 IMPACTで中村和裕と対戦し、パンチラッシュでKO負け。

現在は神奈川県平塚市にあるプラスチック製品やプラスチック金型の製造をする会社に勤務しているそうだ。

後年、某バラエティー番組で嫁との馴れ初めの紹介によれば、戦闘竜が右ひざの手術の為に入院していたある日、戦闘竜と同じ病室に嫁の友人がたまたま入院していて、それがきっかけで
お付き合いが始まり、最終的に結婚に至ったそうだ。

おしゃれな敷物です↓↓↓

年寄・陸奥、8代から9代(現在)の変遷と関取たち

 陸奥部屋

今をときめく、そして次なる夏場所に大関獲りをかける関脇・霧馬山が所属する、元大関・霧島が師匠の「両国国技館」から最も近い相撲部屋である。

今日はその年寄・陸奥
第9代となる現親方に引き継がれる前、第8代陸奥から現在までの32年間を振り返る。

~第8代・星岩涛時代~

第7代師匠が停年を迎えた1991年1月場所後に(元前頭14枚目・星岩涛は)35歳で引退し、陸奥部屋を継承した。

7代からの弟子であるアルゼンチン出身の星誕期星安出寿が十両へ昇進したが、いずれも幕内昇進には至っていない。

しかし、部屋の勢力は徐々に衰退していき、(一時的ではあるが)部屋の所属力士がアルゼンチン出身の関取経験者2名だけという状況を招いてしまう。

逸話もある。
自身が師匠を務めていた頃の陸奥部屋は経営難からちゃんこを用意することにも苦労したといい、星誕期や星安出寿の両関取はマクドナルドで食事を済ませる事が多かったそうだ。自身も現役末期の頃はそれに等しい食生活をしていたとされる。

言うなれば、弱小部屋だったのである。

1997年11月場所後に元大関・霧島の勝ノ浦親方に陸奥の名跡と部屋を譲る事となり、同年12月限りで相撲協会を退職した。

因みに現在は鹿児島市内で、飲食店「天手古舞」(てんてこまい)を経営しているそうだ。

              8代の近影

~第9代・霧島時代~

8代から陸奥を継承した9代(元霧島)は、部屋を両国駅前に移転した。

2000年9月には14代立田川(元関脇・青の里)の定年退職によって閉鎖された立田川部屋を吸収合併。

関わった関取としては、
立田川部屋からの移籍組が
小結・白馬
前頭・敷島、豊桜、十文字、琉鵬

井筒部屋から移籍の
横綱・鶴竜

9代(霧島)が育てた生え抜き関取は、
十両・霧の若
関脇・霧馬山
となっている。

霧島といえば豪快な吊り技の数々が、目に焼き付いて離れない。
霧馬山にその必殺技の習得を託したいのだが、力士大型化が進む昨今では、それも難しいのかもしれない。

去年3月、11年ぶりに日本相撲協会の理事に復帰し、ナンバー2の事業部長に就任した陸奥親方。65歳定年を迎える来年4月までの「総仕上げ」として、幕内優勝を遂げた霧馬山を角界力士の顔として育て、大関・横綱へと導くことか。



相撲の定番土産です↓↓↓

標的を追いかける先に

 大相撲の幕内・高安(33=田子ノ浦)が21日、東京都中央区の荒汐部屋に出向き、小結・若元春(29=荒汐)と出稽古に訪れた関脇・霧馬山(26=陸奥)を相手に計21番取った。  霧馬山とは最後の連続11番を含む17番。「霧馬山とやるために来た。強い人とやると良い稽古になるので」と春場所優勝力士を稽古相手に求め、出稽古先に乗り込んだ。(スポニチより)

この意識・気概がいいですよね。

実際に若元春との対戦成績は2勝1敗で髙安リード。

霧馬山とは、6勝4敗で髙安に分があるのだが。

関脇陥落後は(20場所中)12勝2回、11勝1回、10勝5回と実績を挙げているが、3場所連続2ケタ勝利など、特筆すべき成績を挙げられないままぶ厚い壁を乗り越えられずにいる。

髙安も33歳になった。

優勝争いはおろか、大関再奪取も含めた活躍を期待したい。

また、そういう行動を起こすことで、自分にも(後がない・またやってやるぞと)言い聞かせているのではないか。

ここで重ね合わせて標的を追い求め、連日猛稽古を重ねた猛者のエピソードといったら、千代の富士が琴風を連日追い回して、苦手意識を克服した伝説が名高い。

何せ、十両時代の初対戦から7連敗と大の苦手としていたのだから。

「ケガをせず体にも負担がかからない相撲とは何か。それが左の前まわしを取って一気に攻め込む相撲だった」

 来る日も来る日も琴風のもとへ出稽古に行き、苦手を克服した話は角界では有名だ。成果は劇的な形で現れた。7連敗後の対戦成績は千代の富士の22勝1敗である。左の前まわしを取って一気に走る速攻相撲は、琴風との稽古によって磨かれていった。(スポーツナビより)

苦手力士との三番稽古は、苦手側に立ってみれば、それは嫌でつらいものだろうが、乗り越えた先に自信と名誉がついてくるのではないだろうか。

昭和最後の大横綱、ウルフ・千代の富士はそういうメッセージをしているのかな。

髙安、手形入りサイン色紙です↓↓↓