史上最強の関脇・長谷川

 「史上最強の関脇」と称された長谷川(佐渡ヶ嶽)は1944年(昭和19年)7月20日生まれ、北海道空知郡栗沢村出身(出生地は樺太らしい)

1960年(昭和35年)3月場所に初土俵。
恵まれた体格で入門当初から期待・注目を集めていた。

新入幕は5年後の1965年(昭和40年)1月場所。連続勝ち越しでその年の9月場所で初金星(栃ノ海から)以降「上位キラー」としてその名をとどろかせる(金星なんと9個)
小結や幕内5枚目以内には頻繁に名を連ねるも「関脇」に登り詰めるまでは、少し時間を要した(新入幕から丸4年後・幕内25場所目)

左四つからの素早い攻め、時には足技を絡めて、幕内優勝1回挙げている(1972年3月場所)
北の富士との睨み合いや、大関獲りを競い合った貴ノ花・魁傑・輪島・三重ノ海らとの対戦が収録された動画がこちら。

番付運に恵まれず、関脇21場所在位したが(当時最多・現在2位)大関昇進はならなかった。

引退は1976年5月場所途中、当時の番付は東前頭8枚目。

当時師匠の11代佐渡ヶ嶽(元小結・初代琴錦)から次期佐渡ヶ嶽の後継者に指名されていたが、その11代佐渡ヶ嶽が急逝(1974年7月)その場所の長谷川は技能賞を獲得するなど、まだ余力を残している時期だった為、11代急逝直前に引退した琴櫻が継承し、長谷川は「年寄・秀ノ山」となり、部屋付き親方として後進の指導にあたった。

2009年7月場所限りで停年退職。

上述4名との対戦成績(長谷川から見て)
貴ノ花  8勝20敗
魁傑   8勝15敗
輪島   5勝18敗
三重ノ海 9勝14敗 となっていた。

素朴な疑問
①現役時代の四股名を本名の「長谷川」で全うしたのは何か理由があるのか。
どうして「琴」をつけなかったのか。
②両国駅改札付近に確かこの「長谷川」の優勝額が飾っていたはずだが、いつの間にか変わっていた。誰のものと変わったのかな?

Wikipedia・エピソードから
・ゆで卵を一気に20個、水も飲まずに平らげたことがあるという(これは本当か!?)

現役時代の長谷川のトレカをみーっけ↓↓↓

把瑠都の怪力ぶりと近況

 史上初のエストニア出身力士、把瑠都 凱斗(ばると かいと)
大関まで登り詰めたその背景には、右四つ・寄り・投げ・吊りがあった。
相撲で成功したその怪力ぶりと、現在をお伝えする。

~あの白鵬の連勝を30で止めた~

2010年1月場所、あの白鵬の連勝を「30」で止めた一番。
ここまでですら、幕内優勝12回を誇る白鵬 翔。
その大横綱を、右四つから巻き替えると同時にすくい投げに仕留めてみせた。
白鵬も右からの上手投げを見せるも、投げの打ち合いを制したのは当時大関に向かって驀進中の把瑠都だった。

把瑠都はこの2場所後に大関昇進。
その後の成績から振り返ると、もう一段上の「横綱」という声・機運は高まらなかった。
2012年初場所に唯一の幕内優勝は果たしているが、芳しい成績は収められずケガが重なり番付を落とす。
引退は、この優勝から数えて10場所後の2013年9月場所前に発表。
栄光からの転落は早かった。

引退後は実業家となり、5つの事業を展開(格闘家としてもキャリアあり)
並行してタレント・俳優としても活動(オフィス北野所属)2018年5月、祖国エストニアで国会議員になるため帰国した。

~把瑠都の近況~

今年、今月(10月8日)には世界相撲選手権大会 エストニアチームの監督として来日した。把瑠都さんはエストニアに相撲道場を作り、国会議員の仕事の傍らに指導をしているという。白鵬との久々の対面、最初の方にちょこっとあります(5秒程度)

把瑠都、元気です!!

※25日水曜日(20時より)埼玉・草加でトークライブがあります!
元力士が経営するお店からお届けします。現地参加もまだ受け付けてるそうですよ!

埼玉県草加市 居酒屋 闘勝花

@toshoka

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草加の相撲バー闘勝花より元力士の福田さんと相撲裏話する生放送 – 西尾克洋 【2023年10月25日20:00配信予定】 https://voicy.jp/channel/3303/live/29258?q=7f005c3fa6… #Voicy

voicy.jp

この3大関時代を振り返ろう!↓↓↓

元大関・大受の栄枯盛衰

 突き押し相撲、おっつけ(脇の固さ)で大関まで上り詰めた大受久晃を振り返る。

小学校の修学旅行で泊まった函館駅前の旅館が高島部屋の勧誘を担当していた関係で、入門を誘われた。その後中学校入学間もない頃に、当時の高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家に訪れ熱心に説き落とす。他の部屋からも誘いがあったが、わざわざ家まで来てくれた高島部屋への入門を決意する。大受は10人兄弟の6男なので、入門に対する障害になるものがなく、スムーズに決まった。13歳の時に見習いとして上京。しかしその当時、規定の身長に12㎝も足りず、部屋近くの公園で身長を伸ばす目的で鉄棒にぶら下がり続けた苦労があった。

初土俵は1965年3月場所。結局シリコンを頭に入れた上の合格。
出世は早かった。十両までは4年半。
師匠からマンツーマンでの厳しい指導を乗り越えた末に掴んだ押し相撲で、新入幕の場所に技能賞を獲得。以降、三賞の常連となる。

大受の相撲人生の転機、最大の栄光は1973年(昭和48年)のこと。
春場所から小結で10勝(殊勲賞、3大関に勝利)関脇で11勝(殊勲と技能、2横綱・2大関撃破)関脇で13勝(3賞独占、1横綱・2大関打破)で文句なし、この7月場所後大関昇進が決定した。

※3賞独占はこの時点における史上初。翌場所に新入幕した大錦が横綱・大関を破るなどして2場所連続の3賞独占となったのは有名な話。

ここから手のひらを返したように、大受の力士人生は下り坂へとたどっていく。
腰痛やケガの影響で、大関在位はたったの5場所。関脇陥落の場所も9勝止まりで大関復帰ならず。以降も負け越しが多くなり、番付をじわじわと下降させていった。
引退を決めたのは、1977年5月場所。番付は西十両筆頭(当時大関経験者で初めて十両に陥落した)まで下げていた。

シリコンのエピソードに関して
・大受の現役時代の技術では一旦入れたシリコンは除去不能なため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた。
・相撲では「武器」になったらしく、当時の横綱・北の富士は「シリコンが入ってると、稽古しても痛かった。尖ってるから刺さるようで。たまったもんじゃないですよ」と述べたそうだ。
・引退後しばらくしてから、頭痛に悩まされるようになり、2009年春に除去手術を受ける。その時には頭の中でシリコンがグシャグシャになってたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだ。

私の印象としては
相撲好きになった頃には、勝負審判をしていた。いつもいつも四方のどこかに座っていた。
温厚で柔和な人柄が見た目から感じ取れた。
そんなところですかね。

貴重な映像・動画、対千代の富士戦が残っていた(昭和50年9月場所2日目)
この場所、新入幕で迎えた千代の富士の初勝利の一番というおまけ付き。
千代の富士、当時20歳・体重96㎏(推定) 
若い若い、細い細い! がぶり寄りで決めてみせた!

定番の相撲チョコレートです↓↓↓

貴ノ花の昭和50年

 貴乃花光司の父、「角界のプリンス」こと貴ノ花利彰。
美男力士として知られ、女性人気も高かった。痩身・そっぷ型で下半身に驚異的な粘りがあり、強靭な足腰であるがゆえに「行司泣かせ」な力士であった。

角界入門前は水泳選手として名を馳せ、将来のオリンピック候補選手だったのは有名な話。
水泳ではメダルを獲得しても経済的に恵まれるような時代ではなく、体の大きな若者がスポーツで身を立てるなら、野球か相撲ぐらいしか選択肢がなく、22歳離れた兄である勝治(初代若乃花)は兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。

本名の「花田 満」で初土俵。
兄から師匠へと立場の変わった二子山(初代・若乃花)は、「弟だから甘くしている」と言わせないため、二子山は花田にわざと厳しく接していた。その甲斐あってか、初土俵から17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立。初の負け越しを記録した18場所目は東十両10枚目に番付されており、初土俵から3年間負け越し知らず。その後も着々と番付を上昇。猛稽古で鍛え上げられた肉体と精神は噓をつかなかった。1972年11月場所で大関昇進。

ここから今までとは違った苦労があった。大関であることがゆえ常勝・優勝争いが求められるが、2ケタ勝利が容易でなくなってきた。(大関としての)初の2ケタを勝ち取るまで9場所かかる。
初優勝を遂げたのは、1975年(昭和50年)春場所の事だった(大関在位15場所目)この場所の貴ノ花は4日目に荒勢に負けただけで、千秋楽を迎えるまで13勝1敗で駆け抜けた。その千秋楽で横綱・北の湖と対戦し寄り切りで敗れ(この2人による)優勝決定戦に持ち込まれた。この本割りと決定戦が収録された動画があった。

貴ノ花が勝利した瞬間、熱狂した観客からの座布団が乱れ飛び、拍手と歓声が鳴りやまなかった。
横綱昇進への機運が高まったが、翌場所9勝止まり。その翌場所は肝臓炎・慢性腸炎により4日目から途中休場(0勝4敗11休)、かど番で迎えた次場所・昭和50年9月場所は12勝3敗を挙げ、またもや北の湖との優勝決定戦に持ち込まれた。

両者引きつけ合った末、土俵際での貴ノ花の上手投げが決まり、貴ノ花2度目の優勝成る!
しかし、歓喜の時間は今回も長く続かなかった。翌場所は勝ち越すのがやっとの8勝7敗で終わる。 

貴ノ花の幕内優勝は結局この2回のみ。
この頃から腎臓病や足のケガに悩まされていたそうだ。
9勝6敗が多かったことから「クンロク大関」などと揶揄されたりもしたが、不平不満を口にせず、ケガや病気との戦い、満身創痍で戦っていたわけだ。

貴ノ花にとってこの昭和50年は、大関時代(力士人生)の最初で最後の輝きだった。

貴ノ花ファンにはたまらない↓↓↓

人間・花田光司に戻ってきている

 今月4日~9日に新宿の京王百貨店の催物会場で、「東西有名寿司と全国うまいもの大会」という催事があり、あの貴闘力の江東区清澄、他で店舗展開する「焼肉ドラゴ」が(この催事)初登場。黒毛和牛が贅沢なまでにのった「特選 黒毛和牛 まぶし弁当」を筆頭に、人気メニューのコロッケやメンチカツなどを引っ提げて、6日間の奮闘ぶりを先日の貴闘力チャンネルで語ってくれた。

「赤字じゃなかった」「1日平均売上20万円」「551蓬莱の豚まんが1日1万個バカ売れで、他に餃子やシュウマイと合わせて売上350万ぐらい」とか「(貴闘力の)YouTubeを見たお客様200人以上来店」「相撲上がりの方(元力士)も何十人も来て弁当を買ってくれた」などいろんな裏話をひとしきり披露してくれて楽しかった。

そのあとにあの貴乃花が来店してくれた話まで紹介!先日再婚した奥さんと、大量のようかんを差し入れで持ってきてくれたとか。(この2人、現役時代に苦楽を共にした仲)

ここなんですね、今日お伝えしたいことは。
本当にいい話で。今までの苦労と苦難、受けた屈辱や侮辱、途方もない理不尽な事の数々を耐えてきた連続から、凝り固まった頑固さを解きほぐしてくれる人との結婚(再婚)、(貴乃花が)明るく元気そうにやっている知らせを貴闘力部屋から聞けてすごくうれしい気持ちになりました。

またそれを発信している貴闘力の嬉しそうな顔も見られてこちらの幸せな気持ちも2倍3倍になりましたよ!

現役時代の勇姿↓↓↓