名門・時津風に灯りをともした男

 時津風部屋、あの第35代横綱双葉山が興した由緒ある部屋、溯れば双葉山相撲道場である。(下の画像・左から場道撲相山葉双と横書きの看板が薄く見える)

関取は、去年11月に豊山、2020年7月に人気力士・豊ノ島がそれぞれ引退。

現役の関取は正代ただ1人の孤軍奮闘状態である。

こんな状況を打破するべく、一人の救世主が現れた。

時疾風 秀喜(ときはやて ひでき)である。

今日はこの時疾風の十両入りと前途を祝して人物像を紹介したい。

時疾風 秀喜こと冨栄 秀喜(とみえ ひでき)は1996年8月25日、宮城県栗原市に生まれる。

相撲との出会いは小学校2年。地元の相撲クラブで始めた。

中学生の頃から小牛田農林高校の合宿に参加しており、その縁で同高校に進学。
主な実績としては、3年次にインターハイ3位。

大学入学後(東京農業大学)は、同学年に当たる翠富士と錦富士が近畿大学を中退して角界入りしたことに刺激を受けて、角界入りを決意。

卒業後に時津風部屋に入門。
2019年3月に初土俵を踏んだ。

序ノ口に名前が載った翌5月場所を6勝1敗。
次の7月場所を7戦全勝で見事、序二段優勝。
翌9月場所も6勝1敗の好成績を挙げ、序ノ口・序二段・三段目を各1場所で通過。

幕下に上がっても順調に勝ち越しを続けるが、10枚目以内に入ると負け越しを記録するようになる。やはり甘くないというか、実力者たちが厚い壁となって立ちはだかってきた。

2021年9月場所、左太ももの肉離れと右ひざ内側靭帯の損傷により途中休場するも、翌場所には復帰して5勝2敗。以降コツコツと勝ち越しを積み重ね、念願の関取昇進を果たした。

さぁ、これで翠富士と錦富士に一歩近づき、これからが本当の勝負だ。

178cm・129㎏の体格を駆使したスピード相撲が持ち味。

時疾風秀喜 疾風のように現れた新十両の場所で疾風(しっぷう)を巻き起こすことができるのか。

時津風部屋の歴史がこの一冊に集約されてます↓↓↓

 

小錦の横綱を阻んだ夏場所の出来事

 元大関・小錦八十吉。

ハワイ・オアフ島出身、(入門時から)規格外の体格と強烈な突き押しで「黒船襲来」と恐れられた。

現在ではタレントやハワイアン音楽のアーティストとして活動。

特にNHK Eテレ「にほんごであそぼ」には「コニちゃん」として放送開始から出演。
子供達からも高い人気を得ている。

また、ネットショップの「KONISHIKIショッピングモール」の経営、相撲観戦ツアーの開催や各種イベントへの出演など、多忙な日々を送る毎日だ。

~北尾との伝説の一番~

そんな小錦の相撲人生の転機となった一番がある。

1986年5月場所・8日目(天覧相撲)に組まれた北尾戦(のちの横綱・双羽黒)だ。

ここまでの小錦は同年1月(小結で)10勝、3月(小結で)12勝を上げており、大関獲りがかかっていた。

実際の取組である。
最初の一番では土俵際の攻防で、北尾の足(つま先)か、小錦の体かで物言いがつき、協議の結果「取り直し」と発表となった。
(私自身はこのスロー映像で見る限り)完全に北尾の足が先に出ているように見えたが。

さて取り直しの一番。
小錦が突っ張りから前に出ようとする。北尾の差し手を許さない。
北尾右四つ左上手でいい形。寄る北尾、こらえる小錦。
小錦が巻き替え、もろ差しになったところを北尾が勝負を賭けて寄る、小錦が土俵際で踏ん張り、吊り上げようとしたところで北尾の鯖折りが決まった。

小錦はこの一戦で、右膝じん帯損傷・骨折の大ケガを負う。
その次の7月場所を全休。大関獲りも振り出しになった。
加えて右膝は完治することなく、現役時代はこの後遺症で苦しむことになった。

~その後の二人の人生~

北尾は優勝経験のないまま、その翌々場所の1986年7月場所後に第60代横綱へと昇進した。

直近3場所の星取は、10勝⇒12勝(優勝次点)⇒14勝(千代の富士に本割りで勝つも、決定戦で敗れる)横綱審議委員会では反対意見があるも、最後は多数決によって決定した「期待値込み」の横綱昇進になる。

横綱昇進後も、合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの最後は逃している。

1987年12月、師匠らと衝突し部屋を脱走。突然の廃業となり、世間を大きく騒がせた。

以後、スポーツ冒険家・プロレスラー・総合格闘家へと転向を重ねるが、どれもうまくいかなかった。

プロレス(格闘家)の引退から5年後の2003年にフリーの立場で、(短期間ながら)立浪部屋のアドバイザーに就任。

(晩年は)角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。

2019年3月に長らく公の場に姿を現さなかった北尾の訃報が明らかになった。
同年2月10日に慢性腎不全のため千葉県の病院で55歳で死去。2013年頃から闘病生活を送っていたという。

一方の小錦

一旦は振り出しになった大関獲りへ向け、休場明けとなった1986年9月場所から連続して2ケタ勝利。

1987年5月場所後に念願だった大関昇進を果たす。さらに外国出身力士としては史上初めての快挙だった。

横綱を期待されたものの、苦手・北天佑に苦杯をなめさせられたり、膝の故障の影響で勝ち越しても8~9勝止まりの成績が続く。

それでもその後に幕内優勝3回を記録した。

外国人力士であるがゆえの苦労や辛酸をなめることもあったようだが、小錦は耐えた。

1993年11月場所後に39場所務めた大関陥落も、幕内力士として現役続行。

そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、13日目に敗れて負け越しが決まると千秋楽を待たずに引退することになった。

引退に際して小錦は「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」と語ったそうだ。

~後年、小錦は振り返る~

小錦が大関時代の1987年11月場所後、横綱・双羽黒の廃業を機に協会・横審とも横綱昇進について極めて慎重な姿勢を取るようになり、「双羽黒は小錦の横綱昇進を阻んだ最大の加害者」と見る好角家も多かった。それでも小錦本人は双羽黒を恨まず、逆に「あのケガがあったから大関になれた」とコメントしている。

一人の感情ある人間として、不平や不満は必ずあったはずだが、それらをそっと胸の中にしまい、感謝の言葉を口にする小錦の器の大きさに、今日(こんにち)の成功している理由がわかる気がした。

小錦の貯金箱です↓↓↓

天龍のプロレス転向は運命だったのか

 天龍源一郎

大相撲力士としては西前頭筆頭まで出世し、プロレスラーとしては、数々のタイトルを獲得し、多くのトーナメントで優勝した「格闘界のレジェンド」である。

26歳で角界を引退し、その年の10月に全日本プロレスに入団した訳だが、相撲からプロレス転向を暗示するような出来事が、相撲界入門の際(天龍・13歳時)にあった。

それは何だろうか。

相撲からプロレス転向の先駆者、日本プロレス界の父・力道山(力士時代・二所ノ関部屋所属)が刺殺されたのである。

そこ(プロレス転向)に至るまでの天龍の相撲履歴・エピソード。

福井県の勝山市にて農家の長男として生まれ、幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。

小学校高学年になると学校を休んで、実家の田植えの手伝いを行うことを課せられた。

その事が体の成長だけでなく、足腰の強化などにも結果的につながったのか、ほとんどの運動部の試合に駆り出されたそうだ。

相撲界に入門する最初のきっかけになったのが、父が床屋で散髪していた際に店主が後援者に「この辺りに相撲ができるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が天龍少年を連れて行って大鵬に会わせ、勧誘したとされる。
中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したことも、決断を下す前向きな要因になったのだろう。

入門後、関取(新十両)まで初土俵から7年を要した。
1場所で転落するも、5場所後に十両復帰。ここから引退までの4年余りを関取として過ごした。最高位は、1974年初場所の西前頭筆頭。
三賞と金星獲得には縁がなかった。

天龍源一郎(相撲)通算成績:393勝355敗 勝率.525

~10代・二所ノ関との確執~

1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれる。
俗に言う「押尾川事件」だ。
天龍自身は大麒麟の押尾川部屋入りを希望したのだが、金剛正裕(元関脇)が二所ノ関を襲名して(10代)継承した二所ノ関部屋に戻されやる気がなくなり、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受けた。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。

気力が完全に無くなってた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右と出会い、ブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。1976年秋場所に勝ち越したのを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。

(プロレス)入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったというが実際のところはこれ如何に。

プロレス時代の活躍は周知の通りである。

2015年11月、プロレスラー引退後は芸能活動を本格的に開始し、バラエティタレントとして活躍。

近年は、病気を患う事もあったようだが、また明るい笑顔・元気な姿が見られるだろう。

天龍Tシャツ↓↓↓

ガガちゃんの相方は、真面目で誠実 ユーモアあり。

 相撲関係のyoutubeチャンネル、代表的なものでは「日本相撲協会公式チャンネル」や、あの貴闘力が角界の闇や裏話を惜しげもなく話してくれる「貴闘力チャンネル」、ジョージア出身の元小結・臥牙丸の「ガガちゃんねる」などがある(他多数)

このガガちゃんねるによく元前頭の阿夢露がよく出演している。

外国人力士として(異国の地で)掴んだ栄光や(裏側にあった)苦労、そして相撲の動作を活かしたトレーナーとして活躍する現在をお伝えしたい。

阿夢露 光大(あむうる みつひろ)ことニコライ・ユーリィヴィッチ・イワノフは、1983年8月25日、ロシア・レソザボズク市に生まれる。

高校卒業後、姉の夫である日本人の義兄に相撲を勧められ、ロシアから来日。相撲部屋の稽古を見て力士たちの努力とパワーを感じ取った。

元・玉麒麟(引退後はプロレスラー)として活躍した田上 明氏から当時の阿武松親方(元益荒雄)に紹介され入門

「夢を持ってロシアから阿武松部屋に来た」との意味を込め、「阿夢露(あむうる)」の四股名がついた。

100㎏に満たない体重と十両を間近にした幕下8枚目の時に、左膝に重傷を負ったりと苦労が続いた(2010年7月場所)
2場所の全休等で三段目まで番付を落とすが、ケガの回復も相まって、復帰後わずか4場所で念願の新十両昇進を果たした(2012年1月場所)

しかし、それもほんの束の間でまた悲劇が襲う。
その新十両の場所で右膝靱帯断裂の重傷を負い、10勝1敗と優勝争いの先頭に立っていながらも13日目から休場して場所を終え、翌場所から5場所連続全休。
阿武松親方は進退を本人に任せていたようだが、阿夢露は諦めなかった。

今度は序二段(44枚目)まで番付を落とすも、復帰したその場所で7戦全勝優勝を皮切りに5勝⇒6勝⇒6勝⇒5勝⇒5勝⇒5勝と勝ち越しを重ね、見事2年ぶりの十両復帰を成し遂げる。

勢い止まらず、更にここから4場所連続勝ち越しで新入幕。
これは初土俵から所要74場所と外国出身力士では最も遅い新入幕記録となった。

その場所を5勝10敗で負け越し、十両陥落も1場所で幕内復帰。
しかし、この復帰から5場所後には、自己最高位となる東前頭5枚目まで昇り詰めた。
2016年5月場所はケガで途中休場となり、これを境に少しずつ番付降下。

2018年5月14日、両国国技館で会見を開き、引退を表明。
記者会見では引退後は日本に留まりスポーツトレーナーを目指す意向を示した。

現在では、千葉県内のジム「フレックス津田沼」でトレーナーとして活躍しており、四股や股割りなど、本物の相撲の要素を生かしたトレーニングを受けられるとある。

では、実際の相撲トレーニングの動画を2つ抜粋。

また、懇意にしている臥牙丸のyoutubeチャンネルに度々出演。

気心知れた臥牙丸との軽妙なやり取りの中にも、誠実な人柄が垣間見える。
そのやり取りがこのガガちゃんねるに無くてはならないものになっているようだ。

阿夢露ことニコライさんも掲載されてます↓↓↓

栃赤城七変化

 「豊昇龍の多彩な足技+宇良のアクロバットな動き÷2=栃赤城」

だいぶ無理があるか。

1980年前後に「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。

36手に及ぶ決まり手。

今でも語り継がれることの多い栃赤城は・・・、

1954年10月31日、群馬県沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として生れた。

高校では柔道部に所属し、国民体育大会に出場。この時に体重は既に100㎏を超えていたことが春日野親方(元横綱・栃錦)の目に留まり再三勧誘され、春日野部屋へ入門することとなった。

順調な出世を遂げ、1976年11月場所に22歳で十両に昇進。

1977年5月場所の新入幕昇進を機に「栃赤城」に改名。
この四股名は、故郷の名峰・赤城山にちなんだものである。

さぁ、ここから七変化の如く華麗なる技・相撲っぷりを紹介する。

最後の最後の一番に、すごいすごい取組が収録されていた。

同じことを言うようだが、足技の数々に豊昇龍を想起させ、
腕を巧みに使った(主に)小手投げ・とったり・逆とったりなどの技に宇良を思い返す。

技を繰り出すタイミングの見極め、カンがいいですよね(偉そうですみません)

~力士として~

逆転技に頼った相撲で多かったせいか、自身の体に次第に影響を及ぼしてくる。両足首のケガで大関への昇進は成らず、稽古嫌いであった上に、食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙(ヘビースモーカーとして知られていた)など自己管理の甘さも大成を妨げる形になった。

また、糖尿病も患いこの事も番付降下の一因とされている。

その後は、4年以上も幕下で相撲を取り続けたが、1990年3月場所限りで「廃業」

人付き合いが苦手で、ほとんど(タニマチ・後援者と)付き合わなかったことが、年寄株取得に至らなかったとされる。

~相撲界廃業後・ゴルフ場での急逝~

廃業後は実家の呉服店を手伝っていた。

1997年8月、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、やがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後に死去した。42歳の早世だった。死因は急性心筋梗塞であったという。

どこまでもマイペースで異端児的な生き方を全うした、栃赤城。

あり余る素質とセンスに埋もれたことが、早逝の運命を引き寄せたか。

いや、これも栃赤城流サーカス的な生き方なのかもしれない。

面白そうなDVDです。もちろん本人(栃赤城)も名を連ねてます↓↓↓