東大卒力士奮闘記

 史上初の東大生力士として話題をさらった須山(木瀬)、夏場所は三段目に昇格して、東73枚目に番付された。

身長181cm・体重110㎏と相撲協会公式サイトには記載(体重がわずかに増えたか)

ちょうど1年前の5月場所に、前相撲でデビューしたので丸1年・7場所目を迎えた。

その間にきちんと大学を卒業されて、晴れて「専属力士」となりました、立派!

力士としても、去年11月場所に残念ながら3勝4敗の負け越しを記録したが、それ以外の場所は全て勝ち越し。コツコツと番付を上げてきた。

東大相撲部では主将も務めた須山。

所属する木瀬部屋には、多数の関取と関取経験者がいる。

そういった環境下で厳しくも充実した稽古ができてるのだろう。

学歴など一切関係のない世界に飛び込み、ゼロから這い上がる姿勢に好感が持てる。
相撲に対してとても真摯でひたむきに取り組んでるとか。

動画は先場所5日目・颯雅(そうが・二子山)戦

懸命な寄りの中にも、途中2回ほど相手の上手を切りにいく動きがあり、タイミングや切り方の動作はなかなかのものに感じた。

夏場所もこの力士から目が離せない。

同部屋・関取、宇良の手形入りサイン色紙です↓↓↓

 

式秀・序ノ口4戦士

 珍名力士・個性派のお相撲さんが多く所属している式秀部屋の所属力士は現在18人。うち序ノ口力士は4人。

この4人を年代別に別ければ
40代 2人  10代と20代が1人ずつ

番付順に紹介すれば

東筆頭 潮来桜 弘四郎 (いたこざくら こうしろう)

生年月日 昭和53年10月2日(44歳)
初土俵  1994年3月場所の大ベテラン
力士在位 173場所 (序二段130場所・序ノ口42場所・前相撲1場所)
最高位  東序二段19枚目
通算成績 499勝695敗12休
茨城県土浦市出身 
四股名は茨城つながりか。 

西二枚目 澤勇 智和 (さわいさむ ともかず)

生年月日 昭和52年2月7日(46歳)
初土俵  1992年7月場所のこちらも大ベテラン
力士在位 174場所 (序二段48場所・序ノ口123場所・前相撲3場所)※ケガによる番付外9場所あり
最高位  東序二段53枚目
通算成績 391勝784敗24休
東京都品川区出身 
※序ノ口連続在位33場所目(前相撲と感染症拡大により中止の1場所ずつ除く)
※一時期、アイドル・嗣永桃子のファンであることから「桃智桜」(ももちざくら)と名乗っていた時期がある(4年程度)

西四枚目 小山桜 龍我 (おやまざくら りょうが)

生年月日 平成18年8月15日(16歳)
初土俵  令和4年3月
力士在位 6場所(序二段1場所・序ノ口5場所)※番付外1場所(ここからスタートを切ったことになっている、力士情報の表記によれば。まぁ、同じ意味か)
最高位  西序二段 47枚目
通算成績 14勝17敗11休
茨城県龍ケ崎市出身 
本名:小山 龍我 なので、四股名は師匠の「桜」を真ん中につけた形になる。

西六枚目 黎大丸 高信(れおんまる たかのぶ)

生年月日 平成11年8月2日(23歳)
初土俵  平成28年3月
力士在位 34場所(序二段27場所・序ノ口6場所/・前相撲1場所)※ケガによる番付外8場所あり
最高位  序二段 12枚目
通算成績 90勝96敗45休
千葉県我孫子市出身 
本名:高信 黎大 なので、四股名は本名を逆にして、現在の体重が185㎏あるそうなので、「丸」をつけたか。

となっている。

夏場所の序ノ口力士数は(東23枚目までの)45人。

式秀部屋は伊勢ケ濱部屋と並び、4人序ノ口に番付されている。

40代のお二人に関して言えば、「好き」を越えた領域にいるのでしょうか。
ただただすごいです。

10代と20代の力士に2人に関しては、(力士としての)将来はまだまだありそうですが、ケガで苦労している様子です(特に黎大丸)

茨城県にある相撲部屋は何も二所ノ関部屋だけではない。

部屋としての規模の違い、アマチュア経験を積んだ有力力士が所属している訳ではないが、部屋単位全員で勢いに乗ってほしい!

見せてくれ、式秀魂!!

定番・相撲チョコレート↓↓↓

「旭大星、逆襲中」

 旭大星がジワジワと復活ののろしを上げている。

おととし(2021年)の左膝の大ケガにより、最終的には序ノ口まで番付を落とした旭大星(大島)が、最新の番付発表で東三段目3枚目と発表された。

幕内経験者の序ノ口陥落は、史上4人目の記録になるほどのケガを負ってしまい、一時はどうなるものか(引退してしまうのかと)正直思ったこともあったが、去年九州場所から復活後、3場所連続6勝1敗の好成績を上げて、ここまで戻ってきた。

(発表された)前後10枚ぐらいを見渡すと、関取経験者を当然ちらほら見掛ける。
鳰の湖、慶天海、朝弁慶あたりか。

勝手なファン目線で言えば(優勝するに越したことはないが)5~6勝は期待したい。

最高位:西前頭8枚目
関取在位:38場所を誇った旭大星は、来たる夏場所でも劇的な復活劇を見せてくれるであろうと共に、そう祈り願っているいる私がいる。

実際の廻しです↓↓↓

けっぱれ!安治川部屋

 安治川部屋のLINEに友だち登録をしているため、部屋の最新情報などがよく入ってくる。

今年7月1日に江東区石島に新設される部屋の建設工事・進捗状況が最新のお知らせであった。

稽古場や大部屋などができてきて、鉄砲柱も設置されたようだ。

現在、弟子は3名。

安櫻(あんざくら)※親方のおいにあたる (インターハイ出場などアマチュア相撲経験あり)
四股名の由来・・・櫻のように咲いてほしいという思い

安強羅(あごうら)
四股名の由来・・・ポルトガル語で「今」という意味で、「この瞬間を大切にしてほしい」という願いが込められている。

十河(そごう)・・・先場所(三月)初土俵 ※本名だそうです

※(外国人の)研修生として、ヤブグシシン・ダニーロ。(愛称・ダーニャ)

と、徐々に第2の安美錦を育てる基盤が整いつつある。

~親方・安美錦の現役時代~

右四つ・出し投げで崩していく形が得意ながらも、時には立ち合いからの突き押し、足技も見せる臨機応変な多彩さがあった。

それがゆえに、珍しい決まり手で勝利することも度々あった。「大逆手(おおさかて)」「裾取り(すそとり)」などである。

2003年7月場所に、膝の大ケガを負ってからは、常にケガとの戦いだった。
それでも諦めず2010年頃からは特注のカーボン製の装具をつけ、上位陣に挑み続け食らいついた。

幕内在位:97場所
三役在位:15場所(関脇6場所、小結9場所)の数字が示す通り、横綱大関陣をよく苦しめた。

三賞:12回(殊勲賞4回・敢闘賞2回・技能賞6回)

金星:8個(貴乃花1個、武蔵丸1個、朝青龍4個、白鵬1個、鶴竜1個)

通算成績:907勝908敗55休 勝率.500

現役在位:135場所 と輝かしい実績を残した安美錦 竜児だった。

※本日、番付発表があり、
安櫻・・・東序二段20枚目
安強羅・・西序二段107枚目
十河・・・西序ノ口16枚目
となっている。

夏場所は今月14日(日曜日)が初日だ。
今から待ち遠しい。

安治川親方スペシャル!!↓↓↓

天龍のプロレス転向は運命だったのか

 天龍源一郎

大相撲力士としては西前頭筆頭まで出世し、プロレスラーとしては、数々のタイトルを獲得し、多くのトーナメントで優勝した「格闘界のレジェンド」である。

26歳で角界を引退し、その年の10月に全日本プロレスに入団した訳だが、相撲からプロレス転向を暗示するような出来事が、相撲界入門の際(天龍・13歳時)にあった。

それは何だろうか。

相撲からプロレス転向の先駆者、日本プロレス界の父・力道山(力士時代・二所ノ関部屋所属)が刺殺されたのである。

そこ(プロレス転向)に至るまでの天龍の相撲履歴・エピソード。

福井県の勝山市にて農家の長男として生まれ、幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。

小学校高学年になると学校を休んで、実家の田植えの手伝いを行うことを課せられた。

その事が体の成長だけでなく、足腰の強化などにも結果的につながったのか、ほとんどの運動部の試合に駆り出されたそうだ。

相撲界に入門する最初のきっかけになったのが、父が床屋で散髪していた際に店主が後援者に「この辺りに相撲ができるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が天龍少年を連れて行って大鵬に会わせ、勧誘したとされる。
中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したことも、決断を下す前向きな要因になったのだろう。

入門後、関取(新十両)まで初土俵から7年を要した。
1場所で転落するも、5場所後に十両復帰。ここから引退までの4年余りを関取として過ごした。最高位は、1974年初場所の西前頭筆頭。
三賞と金星獲得には縁がなかった。

天龍源一郎(相撲)通算成績:393勝355敗 勝率.525

~10代・二所ノ関との確執~

1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれる。
俗に言う「押尾川事件」だ。
天龍自身は大麒麟の押尾川部屋入りを希望したのだが、金剛正裕(元関脇)が二所ノ関を襲名して(10代)継承した二所ノ関部屋に戻されやる気がなくなり、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受けた。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。

気力が完全に無くなってた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右と出会い、ブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。1976年秋場所に勝ち越したのを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。

(プロレス)入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったというが実際のところはこれ如何に。

プロレス時代の活躍は周知の通りである。

2015年11月、プロレスラー引退後は芸能活動を本格的に開始し、バラエティタレントとして活躍。

近年は、病気を患う事もあったようだが、また明るい笑顔・元気な姿が見られるだろう。

天龍Tシャツ↓↓↓