ガンバレ、熱海富士!!

 去年の九州(11月)場所以来、5場所ぶりの幕内。
ここまで3連勝と上々の滑り出しをみせている。しかし右腕のテーピング、左ひじのサポーターが目に付く。昨日(3日目)のベテラン妙義龍戦では、左おっつけ・右差しがままならないところに、(妙義龍は)出し投げで崩して勝負に出てきたが、熱海富士は相手の寄りを利用しての小手投げが決まって快勝!花道奥での笑顔が弾けた。

2日目・大翔鵬戦は、右差しの両者、仕掛けたのは熱海富士。大翔鵬の下手を切って、がぶりを見せながら寄り切った。
初日・琴勝峰戦。熱海富士左上手から頭をつけて寄る。琴勝峰も局面打開を計り、(やや強引な)下手投げで振ってきたが、熱海富士最後まで左上手をしっかり引きつけ寄り切った。

熱海富士の腕と肘、詳細まではよくわからないが、間違えなく良くない状態とだけは言えるだろう。
「我慢」と「辛抱」で3つの白星を掴み取ってきた。
私自身が思っていたより幕内復帰まで時間がかかったが、よく奮闘している。

今日4日目の対戦相手は千代翔馬。

取組直後、花道奥で付け人・蒼富士と笑顔で勝利を分かち合えるのか、それとも取組を見返しながら、反省・検証の時間になるのか。

このあとの取組が楽しみである。

熱海富士といっしょ!↓↓↓

横綱に勝つということ 感涙にむせぶ琴勇輝

 現在の「荒磯親方」こと元関脇・琴勇輝。彼もまた人情味あふれる力士だった。
気っ風の良さを現すかのような突き押し一本の相撲。
立ち合い不成立時の深く丁寧な一礼は、先日に投稿した豊真将を彷彿とさせる。

香川県小豆郡小豆島町出身。
高校を1年で中退。かつて見学したことのある佐渡ヶ嶽部屋に入門する。
新弟子時代から稽古熱心さに定評があり、出世は早かった。序ノ口は1場所、序二段と三段目は各2場所で通過。幕下通過は多少時間を要して13場所。
2011年9月場所で念願の新十両昇進を果たす。そこからじわじわと番付を更に上げた。

琴勇輝のピーク・キャリアハイは2016年にある。唯一の三賞受賞と金星獲得、最高位の関脇に登り詰めたのは、この2016年だ。
初金星を挙げた感涙にむせぶ姿が目に焼き付いて離れない。この年の春場所3日目の日馬富士戦である。「ホゥッ!」付きでどうぞ!

相撲は見事!文句無し!
そのあとの勝ち名乗り(懸賞金受け取り)・土俵下でのふるまい・殊勲インタビュー(お世話になった人たちへの感謝の言葉)・(偶然にもこの日の正面解説だった)師匠・佐渡ヶ嶽親方からの労いの言葉、この一連の情景は本当に感動した。毎日500回の腕立て伏せと鉄砲を欠かさず継続してきた努力の結晶だった。

この2016年を境に足(特に膝)のケガに苦しむ。十両へ陥落する度に幕内へ這い上がってきたが、2021年3月場所限りで引退。

断髪式後「初心に戻りたい」「ここでリセットして新しい幕開け」との理由で丸刈りにしたエピソードは有名。
中学時代の学業の優秀さも手伝ってるのか、解説が上手くて明瞭であることも知られる。

私自身香川県(高松)に転勤を経験した過去があり、勝手に親近感を覚え、贔屓に(推し)にしていた力士だった。親方としての今後ももちろん応援している。

「ホゥッ!!」↓↓↓

琴天太・没後17年、閃光の如き相撲人生

 やはり外国人力士が異国の地に降り立ち、その土地の風習や文化を理解し、受け入れて馴染むのは並大抵の事ではないのか。

佐渡ヶ嶽部屋に入門、序ノ口から連続優勝で頭角を表し、一躍、時の人(力士)として話題になった。廃業後、プロレスラーへ転向。引退後、2006年に42歳で早逝した琴天太ことジョン・テンタにスポットを充てる。

琴天太ことジョン・テンタは、元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、当時の佐渡ヶ嶽(元琴櫻)のスカウトを受け、大学を中退。1985年10月に来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門した。
琴天太の四股名で1985年11月場所初土俵。レスリングチャンピオンの肩書は伊達じゃなかった。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成する。(前相撲の3連勝を除けば、炎鵬や北青鵬に並ぶ大記録)
次の1986年7月場所前に、なんと愛知県の部屋宿舎を無断で飛び出して東京に戻ってしまった。後日、親方(琴櫻)が都内で琴天太と会い、戻るよう説得したが、琴天山の意志は固く、結局廃業することとなる。

琴天山は来日の2ヶ月後には「辞めたい」と申し出ていて、慰留を受けて思いとどまったが、言葉の障害や共同生活になじめないこと、食事が合わないなど、相撲生活に嫌気がさしていた。日本人の恋人ができたが、共同生活では自由に会うこともできず、「自由のない社会はいやだ」ともらすようになっていたとか、幕下に昇進して強い相手との稽古が多くなり以前より勝てなくなったこと、足にけがをしたことから将来に不安を感じていたやら、琴天山は「来日前、相撲界の古い習慣、しきたりはあまり聞かなかった」「私も相撲を知らなかったし、親方も外国人を知らなかった」などなど廃業理由を語ったそうだ。

~プロレス入り後~

結局、かねてから噂のあったプロレス入りを決意する。
1986年7月10日に全日本プロレスに入団。以後、複数団体の王座や地域タイトルを獲得した。

1991年には元横綱双羽黒こと北尾光司と対戦するが、試合内容は北尾が開始当初から組み合わずに危険行為を繰り返し、結果として北尾が試合中にレフェリーを蹴り反則負けを宣せられた。敗北後、リングを降り手にしたマイクで北尾は「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。非常に後味の悪い結果となった。

まぁ、これはなんとなく覚えてます。北尾(双羽黒)も相撲廃業後、迷走が続いてましたからね。

2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年に体調不良を機に現役を引退。

2006年6月7日、アメリカ・フロリダの地に42歳の若さで他界している。

琴天太の相撲人生は何だったのか。
ジョン・テンタのプロレスラー人生は何だったのか。
本名・ジョン・アンソニー・テンタの人生は幸せだったのか。

没後17年が経って振り返ってみた。

残暑お見舞い申し上げます↓↓↓


 

琴富士の栄光と没落

琴富士孝也。

幕内優勝を飾るなど、1990年前後に長らく関取として活躍。
力士時代に得た名誉と栄誉、引退後に味わった苦労と辛酸。
病に冒される現在を掻い摘んでお伝えする。

琴富士は幕内優勝経験者だ。1991年7月場所のこと。
状況としては、前場所に千代の富士が引退、さらにこの名古屋場所途中に横綱・大乃国が引退するなど混迷の中、琴富士は初日から13連勝し、横綱・旭富士に加え、小錦・霧島の両大関も撃破。13日目に見事平幕優勝を果たした。

https://youtu.be/WHJ5OpJHE7Y?t=87

翌場所、小結へと番付を一気に上げるも4勝11敗と大きく負け越し、琴富士にとってこれが最後の三役で過ごした場所となる。
その後は一進一退を続け、1994年11月場所には十両へ陥落、1995年9月場所中、幕下陥落が濃厚となったため現役を引退した。

引退後は年寄・粂川を襲名。佐渡ヶ嶽の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、琴稲妻の引退に伴い、年寄・粂川を返上。1999年7月場所限りで相撲協会を退職。

退職後はタレントへ転向。元大関の小錦が経営する株式会社KPに所属し、現役時代からフジテレビの部屋別対抗歌合戦などで披露するユーモラスなキャラクターを活かして活動した。

タレントとしての仕事が減り始めたころ、当時の大嶽(貴闘力)から電話で「うちの部屋に来ませんか」と誘われ、部屋を提供されてともに暮らしたという。しかし、2010年にその後、琴富士が定職につけずにいるところ、再び貴闘力から連絡があったという。貴闘力が経営する焼肉店の中国進出にあたり、上海に渡った。しかし中国人スタッフから「貴闘力氏は店を辞めた」と告げられ、それから言葉が不慣れな環境で1年働いていたが自らも辞めて帰国している。次第に琴富士の生活は荒れ始め、離婚もしたという。

~転げ落ちる転落人生、逮捕・病気~

2014年2月、偽装結婚の疑いで逮捕。
同年5月、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年(求刑懲役1年6ヶ月)の判決を東京地方裁判所から言い渡された。

釈放後、国内を転々とし、工事現場や飲食店などで働いて食いつないだ。
神戸市内での家賃5万円で6畳のアパート生活が公開され、冷蔵庫も無く、1日に50円のインスタントラーメン2袋という極貧生活を送っていたという。

2021年2月、YouTube琴富士チャンネルで入院することを公表。
1月に検査入院をした結果、虚血性心疾患と慢性腎臓病の診断を受けた。

こんなこともあったそうだ。
一過性脳虚血発作で救急搬送。8時間にも及ぶ大手術を受けるは成功したが、麻酔が覚めないため検査したところ、脳梗塞が発覚。そのため、頭蓋骨の一部を取り外し「減圧開頭術」という手術を受けて奇跡的に助かったという。

現在は寝たきりの状態で、右半身麻痺が残っているそうだ。意識はあり、顔の表情や左手の動作で意思表示を伝えるのだという。

(失礼ながら)随分と浮き沈み・山谷の多い人生を(特に)相撲協会退職後は送っていたようである。

どう言葉をつないだらいいのかわからない。
可能な限り、健康と平凡な毎日が取り戻せますように。


人気の相撲みやげ、チョコレートです

良き親友・良きライバル 琴奨菊と豊ノ島

琴奨菊と豊ノ島。
同年齢で同級生、奇しくも初土俵も一緒の同期生で大親友であることは、相撲ファンの間で広く知られている。

琴奨菊和弘こと菊次一弘は、1984年1月30日、福岡県柳川市で建設会社の社長をしている父の三男として生まれる。柔道の山下泰裕に影響された祖父の下、小学3年生で相撲を始め、毎日2時間の稽古を行い、隣のグラウンドで100メートルのタイヤ引きを1時間かけて40本行い、牛乳は毎日1リットル飲み、学校にはにぼしを持参という相撲の英才教育を受けた。

豊ノ島大樹こと梶原大樹は、1983年6月23日、高知県宿毛市で豆腐店を営む長男として生まれる。こちらは小学校時代、毎朝特大のおにぎり6個(米6合分)を食べて登校するなどして力士としての素養を磨いていた。

そんな2人は、「わんぱく相撲」の小学生時代からの戦友で「お互いが意識」ライバルとしてしのぎを削っていた。

中学・高校とアマチュア大会でお互いに活躍し、プロ入り。選択したのは
菊次(琴奨菊)が佐渡ヶ嶽部屋、梶原(豊ノ島)が時津風部屋だった。

十両までの道のりは琴奨菊2年半(15場所)、豊ノ島2年4ヶ月(14場所)とほぼ拮抗。

そんな2人の出世争いに変化が生じたのが2011年。
琴奨菊が初場所から関脇に定着し始めた。
その年の夏場所から、10勝・11勝・12勝で見事に大関昇進を果たしたのだ。

琴奨菊と言えばがぶり寄り。その看板・代名詞とも言える一番がこちら。

昇進伝達式で「大関の地位を汚さぬよう『万理一空』の境地を求めて、日々努力精進致します」と口上した大関在位は32場所を数えた。

その間の豊ノ島は、度々関脇・小結に名を連ねるも、そこからの厚い壁・上の番付に上がることはなかった。

琴奨菊、悲願の初優勝を2016年初場所に遂げるも、その3場所後の7月場所で古傷の左膝とアキレス腱などを痛め途中休場。翌2017年春場所には関脇へ陥落。時に33歳。

2018年以降は、三役復帰は叶わなかった。
2020年9月場所・2日目の明生戦で左ふくらはぎを痛め休場。このケガが力士人生に対して「ダメ押し」となる。
翌11月場所・西十両3枚目に下がったが現役続行。2日目に松鳳山に勝利したのみで1勝5敗と振るわず、現役引退を発表した。

豊ノ島は、2016年7月場所を目前にした稽古中に、左足のアキレス腱を断裂する大ケガに見舞われ、2場所連続で全休。番付も幕下7枚目まで後退、関取復帰まで2年を要した。
2019年にも今度は右足のアキレス腱を痛め、途中休場。このけがを皮切りにじわじわと番付を下げ、2020年1月場所・東十両11枚目の地位で4勝11敗の負け越し、引退を示唆したがこの時点で7歳となる愛娘に「お相撲さんでいてほしい。普通のお父さんになってほしくない」と言われて再起を決意するも、翌3月場所・東幕下2枚目で2勝5敗と負け越し。
場所後に引退を表明した。
自身の引退に際して「悔いはありませんけど、あるとすればもう1回、菊(琴奨菊)とやりたかった」とコメントした。

琴奨菊は年寄・秀ノ山を襲名。近い将来に独立し、部屋開設の準備中であると聞く。

一方の豊ノ島は年寄・井筒を襲名したが、今年1月に相撲協会に退職届を提出。
現在は、タレントとして活躍。現役時代からバラエティ番組に出演時にものまねや軽妙なトークのやりとりで人気を博していたその才能が生かされてるようだ。

琴奨菊と豊ノ島。
わんぱく相撲からの対決や、相撲人生での紆余曲折の重なり合った偶然は何を意味するのか。
今後の2人の活躍ぶりをしっかりと見届けたい。