茨城・阿見町に部屋を構えて早や1年

 元横綱・稀勢の里が部屋を興し、茨城県阿見町に新部屋が完成して一年が経った。

部屋は約6千平方メートルもの広大な土地に新築。稽古場は効率性を重視して通常1面の土俵を2面つくり、屋外にはバスケットボールができるスペースを設けた。既存の相撲部屋の常識にとらわれないこだわりを感じさせ、異例の広い敷地を生かしての地域交流や相撲普及など幅広い構想があるという。
(日本経済新聞より)ちょうど一年前の記事です。

元関脇・嘉風の中村親方の内弟子を含めて、現在総勢19人を数える二所ノ関部屋。

有望株・関取が手に届きそうな力士もいる(生え抜きで)

大の里・・・2年連続アマチュア横綱の看板を引っさげ、幕下10枚目格で5月場所デビューしたばかりの23歳。先場所6勝を上げ、来場所は十両目前に番付されることが予想される。
初土俵の場所から四股名を与えられるほどの期待の逸材。
「大の里」とは、大正から昭和初期に活躍した青森出身の大関で、164センチの小兵で力が強く「相撲の神様」の異名を取った力士だそうである。

他にも龍王・宮城と続くが、尾車部屋からの移籍組。高橋や嘉陽も日体大相撲部からの入門なので、(日体大出身の)中村親方が独立するまでの在籍かもしれない。

花房(はなふさ・三段目)、藤宗(ふじそう・序ノ口)このあたりがアマチュア経験・実績を上げ入門した生粋の「二所ノ関戦士」か。

広大な土地に大きな部屋を構え、力士達は伸び伸びと稽古を重ね、相撲に精進した生活を送る。都心・東京近郊に多く所在する相撲部屋の概念に逆行するかのような新機軸を打ち出して早や一年。

早稲田大学大学院で、弟子の育成法や部屋の運営手法などを多面的に学んだ二所ノ関親方の相撲理論・哲学はこれから一層花開く。

「稀勢の里」名前入りの巾着袋はいかがですか↓↓↓

往年の名力士の四股名を背負って・夏場所初日

 大相撲夏場所、本日初日を迎えた。

いくつかの見どころ・焦点があるなかで、今日はまず、アマチュア横綱から幕下10枚目格付出の大の里(二所ノ関)のデビュー戦から取り上げたい。

~期待の大器、お目見え~

本名は中村 泰輝(なかむら だいき)
初土俵場所から早くも四股名が与えられ、大正時代の大関の大ノ里萬助や師匠の二所ノ関親方が出世した時の候補に上がった「大の里」として登場した。

対戦相手は(昨日も紹介したが)日体大の2学年先輩で177センチ、123キロの石崎(高砂)
(大の里は)控えに座っている段階から、手首足首を盛んに動かせていたのは緊張の表れか、(それとも)いくぞと体に意志を伝えていたのか。 迎えた一番。

https://www.youtube.com/watch?v=eB7-p364OrA

立ち合い、左上手の石崎。大の里は右差しから構わず一気に出るが、石崎の土俵際に追い込まれても体を開きながらの突き落としが決まった。

大の里は悪くなかった。鳴り物入りで入門し、受けた重圧・プレッシャーは計り知れないものだろう。たかが1敗、されど1敗。かける期待・得た印象は少しも色褪せない。今後も要注目だ。

~令和の怪物、夏場所初日~

十両2場所目の「令和の怪物」こと落合。
初日の対戦はこちらも人気者・熱海富士だ。

立ち合いからもろ差し決まり、頭をつけながらがぶり寄り。
熱海富士は何もできなかった。落合、快勝!
だが、十両土俵入りの時から気になっていたのが、左肩周辺のかなりの面積にテーピングを施していたがどうしたのか、と思ったのだが不安を感じさせない相撲内容だった。そのあとも平然とケロッとふるまっていた。やはり大物である。

~休場明けの初日~

古傷の膝の具合はどうかな。
横綱・照ノ富士が4場所連続休場から復帰した。
元大関、今場所東小結の正代との初日。

正代、照ノ富士の右を制しながら前へ出たが、その右差しを許す(入ってしまい)逆転のすくい投げが決まった。照ノ富士は寄られながらも精神的余裕があったかもしれない。
正代は十分に廻しを引いたわけでもなく(走ってしまい)惜しい一番を落としたが、内容は良かった。むしろ今場所(やってくれるのではと)期待を窺わせた。

大関獲りかかる霧馬山、立ち合いの変化で墓穴を掘り損ねたが翠富士を肩透かしに切って落とした。
若元春、休まず攻めて遠藤を力強く上手出し投げ。先場所同様、鍵を握る存在となりそうだ。

※東前頭2枚目の髙安が14日(今日の)朝稽古で右の太ももを痛め、初日から休場することになりました。 淋しく残念な知らせである。

ガンバレ髙安↓↓↓

行くしかないでしょう!

 

いよいよ今度の日曜日から始まる五月場所を告知する相撲協会公式Twitterを見つけた。

モデルは見ての通り千代丸関です。

私は2日目の2階指定席を購入しました。

前回(今年初場所)、名物「国技館焼き鳥」は、製造工場の従業員寮で、コロナのクラスターが発生したらしく、これにより作業できない状況とかで販売中止となっていた…。
ので、今回はきっちりとリベンジを果たし、焼鳥を頬張ると心に決めている。

気づけば千代丸も32歳。今場所は東十両10枚目に番付された。

バラエティ番組に多数出演で親しみやすいキャラクターは広く知られている。

最高位は東前頭5枚目。三賞・金星獲得はここまで記録がない。

基本的な取り口は突き押し。太鼓腹をうまく使った土俵際の寄りもあり。
この動画で少しだけ見られる(スロー再生部分で)

兄弟力士としても知られ、弟は元小結・千代鳳。
2021年11月場所限りで引退し、現在は年寄・大山を襲名している。

またこの兄弟、鹿児島県志布志市出身。
同郷では、1980年代後半から90年代初めに活躍した元小結・陣岳(井筒)がいる。

最後に懐かしい名前が出できたな。

大砂嵐入りのレアものです↓↓↓

名門・時津風に灯りをともした男

 時津風部屋、あの第35代横綱双葉山が興した由緒ある部屋、溯れば双葉山相撲道場である。(下の画像・左から場道撲相山葉双と横書きの看板が薄く見える)

関取は、去年11月に豊山、2020年7月に人気力士・豊ノ島がそれぞれ引退。

現役の関取は正代ただ1人の孤軍奮闘状態である。

こんな状況を打破するべく、一人の救世主が現れた。

時疾風 秀喜(ときはやて ひでき)である。

今日はこの時疾風の十両入りと前途を祝して人物像を紹介したい。

時疾風 秀喜こと冨栄 秀喜(とみえ ひでき)は1996年8月25日、宮城県栗原市に生まれる。

相撲との出会いは小学校2年。地元の相撲クラブで始めた。

中学生の頃から小牛田農林高校の合宿に参加しており、その縁で同高校に進学。
主な実績としては、3年次にインターハイ3位。

大学入学後(東京農業大学)は、同学年に当たる翠富士と錦富士が近畿大学を中退して角界入りしたことに刺激を受けて、角界入りを決意。

卒業後に時津風部屋に入門。
2019年3月に初土俵を踏んだ。

序ノ口に名前が載った翌5月場所を6勝1敗。
次の7月場所を7戦全勝で見事、序二段優勝。
翌9月場所も6勝1敗の好成績を挙げ、序ノ口・序二段・三段目を各1場所で通過。

幕下に上がっても順調に勝ち越しを続けるが、10枚目以内に入ると負け越しを記録するようになる。やはり甘くないというか、実力者たちが厚い壁となって立ちはだかってきた。

2021年9月場所、左太ももの肉離れと右ひざ内側靭帯の損傷により途中休場するも、翌場所には復帰して5勝2敗。以降コツコツと勝ち越しを積み重ね、念願の関取昇進を果たした。

さぁ、これで翠富士と錦富士に一歩近づき、これからが本当の勝負だ。

178cm・129㎏の体格を駆使したスピード相撲が持ち味。

時疾風秀喜 疾風のように現れた新十両の場所で疾風(しっぷう)を巻き起こすことができるのか。

時津風部屋の歴史がこの一冊に集約されてます↓↓↓

 

小錦の横綱を阻んだ夏場所の出来事

 元大関・小錦八十吉。

ハワイ・オアフ島出身、(入門時から)規格外の体格と強烈な突き押しで「黒船襲来」と恐れられた。

現在ではタレントやハワイアン音楽のアーティストとして活動。

特にNHK Eテレ「にほんごであそぼ」には「コニちゃん」として放送開始から出演。
子供達からも高い人気を得ている。

また、ネットショップの「KONISHIKIショッピングモール」の経営、相撲観戦ツアーの開催や各種イベントへの出演など、多忙な日々を送る毎日だ。

~北尾との伝説の一番~

そんな小錦の相撲人生の転機となった一番がある。

1986年5月場所・8日目(天覧相撲)に組まれた北尾戦(のちの横綱・双羽黒)だ。

ここまでの小錦は同年1月(小結で)10勝、3月(小結で)12勝を上げており、大関獲りがかかっていた。

実際の取組である。
最初の一番では土俵際の攻防で、北尾の足(つま先)か、小錦の体かで物言いがつき、協議の結果「取り直し」と発表となった。
(私自身はこのスロー映像で見る限り)完全に北尾の足が先に出ているように見えたが。

さて取り直しの一番。
小錦が突っ張りから前に出ようとする。北尾の差し手を許さない。
北尾右四つ左上手でいい形。寄る北尾、こらえる小錦。
小錦が巻き替え、もろ差しになったところを北尾が勝負を賭けて寄る、小錦が土俵際で踏ん張り、吊り上げようとしたところで北尾の鯖折りが決まった。

小錦はこの一戦で、右膝じん帯損傷・骨折の大ケガを負う。
その次の7月場所を全休。大関獲りも振り出しになった。
加えて右膝は完治することなく、現役時代はこの後遺症で苦しむことになった。

~その後の二人の人生~

北尾は優勝経験のないまま、その翌々場所の1986年7月場所後に第60代横綱へと昇進した。

直近3場所の星取は、10勝⇒12勝(優勝次点)⇒14勝(千代の富士に本割りで勝つも、決定戦で敗れる)横綱審議委員会では反対意見があるも、最後は多数決によって決定した「期待値込み」の横綱昇進になる。

横綱昇進後も、合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの最後は逃している。

1987年12月、師匠らと衝突し部屋を脱走。突然の廃業となり、世間を大きく騒がせた。

以後、スポーツ冒険家・プロレスラー・総合格闘家へと転向を重ねるが、どれもうまくいかなかった。

プロレス(格闘家)の引退から5年後の2003年にフリーの立場で、(短期間ながら)立浪部屋のアドバイザーに就任。

(晩年は)角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。

2019年3月に長らく公の場に姿を現さなかった北尾の訃報が明らかになった。
同年2月10日に慢性腎不全のため千葉県の病院で55歳で死去。2013年頃から闘病生活を送っていたという。

一方の小錦

一旦は振り出しになった大関獲りへ向け、休場明けとなった1986年9月場所から連続して2ケタ勝利。

1987年5月場所後に念願だった大関昇進を果たす。さらに外国出身力士としては史上初めての快挙だった。

横綱を期待されたものの、苦手・北天佑に苦杯をなめさせられたり、膝の故障の影響で勝ち越しても8~9勝止まりの成績が続く。

それでもその後に幕内優勝3回を記録した。

外国人力士であるがゆえの苦労や辛酸をなめることもあったようだが、小錦は耐えた。

1993年11月場所後に39場所務めた大関陥落も、幕内力士として現役続行。

そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、13日目に敗れて負け越しが決まると千秋楽を待たずに引退することになった。

引退に際して小錦は「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」と語ったそうだ。

~後年、小錦は振り返る~

小錦が大関時代の1987年11月場所後、横綱・双羽黒の廃業を機に協会・横審とも横綱昇進について極めて慎重な姿勢を取るようになり、「双羽黒は小錦の横綱昇進を阻んだ最大の加害者」と見る好角家も多かった。それでも小錦本人は双羽黒を恨まず、逆に「あのケガがあったから大関になれた」とコメントしている。

一人の感情ある人間として、不平や不満は必ずあったはずだが、それらをそっと胸の中にしまい、感謝の言葉を口にする小錦の器の大きさに、今日(こんにち)の成功している理由がわかる気がした。

小錦の貯金箱です↓↓↓