天龍のプロレス転向は運命だったのか

 天龍源一郎

大相撲力士としては西前頭筆頭まで出世し、プロレスラーとしては、数々のタイトルを獲得し、多くのトーナメントで優勝した「格闘界のレジェンド」である。

26歳で角界を引退し、その年の10月に全日本プロレスに入団した訳だが、相撲からプロレス転向を暗示するような出来事が、相撲界入門の際(天龍・13歳時)にあった。

それは何だろうか。

相撲からプロレス転向の先駆者、日本プロレス界の父・力道山(力士時代・二所ノ関部屋所属)が刺殺されたのである。

そこ(プロレス転向)に至るまでの天龍の相撲履歴・エピソード。

福井県の勝山市にて農家の長男として生まれ、幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。

小学校高学年になると学校を休んで、実家の田植えの手伝いを行うことを課せられた。

その事が体の成長だけでなく、足腰の強化などにも結果的につながったのか、ほとんどの運動部の試合に駆り出されたそうだ。

相撲界に入門する最初のきっかけになったのが、父が床屋で散髪していた際に店主が後援者に「この辺りに相撲ができるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が天龍少年を連れて行って大鵬に会わせ、勧誘したとされる。
中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したことも、決断を下す前向きな要因になったのだろう。

入門後、関取(新十両)まで初土俵から7年を要した。
1場所で転落するも、5場所後に十両復帰。ここから引退までの4年余りを関取として過ごした。最高位は、1974年初場所の西前頭筆頭。
三賞と金星獲得には縁がなかった。

天龍源一郎(相撲)通算成績:393勝355敗 勝率.525

~10代・二所ノ関との確執~

1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれる。
俗に言う「押尾川事件」だ。
天龍自身は大麒麟の押尾川部屋入りを希望したのだが、金剛正裕(元関脇)が二所ノ関を襲名して(10代)継承した二所ノ関部屋に戻されやる気がなくなり、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受けた。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。

気力が完全に無くなってた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右と出会い、ブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。1976年秋場所に勝ち越したのを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。

(プロレス)入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったというが実際のところはこれ如何に。

プロレス時代の活躍は周知の通りである。

2015年11月、プロレスラー引退後は芸能活動を本格的に開始し、バラエティタレントとして活躍。

近年は、病気を患う事もあったようだが、また明るい笑顔・元気な姿が見られるだろう。

天龍Tシャツ↓↓↓

ガガちゃんの相方は、真面目で誠実 ユーモアあり。

 相撲関係のyoutubeチャンネル、代表的なものでは「日本相撲協会公式チャンネル」や、あの貴闘力が角界の闇や裏話を惜しげもなく話してくれる「貴闘力チャンネル」、ジョージア出身の元小結・臥牙丸の「ガガちゃんねる」などがある(他多数)

このガガちゃんねるによく元前頭の阿夢露がよく出演している。

外国人力士として(異国の地で)掴んだ栄光や(裏側にあった)苦労、そして相撲の動作を活かしたトレーナーとして活躍する現在をお伝えしたい。

阿夢露 光大(あむうる みつひろ)ことニコライ・ユーリィヴィッチ・イワノフは、1983年8月25日、ロシア・レソザボズク市に生まれる。

高校卒業後、姉の夫である日本人の義兄に相撲を勧められ、ロシアから来日。相撲部屋の稽古を見て力士たちの努力とパワーを感じ取った。

元・玉麒麟(引退後はプロレスラー)として活躍した田上 明氏から当時の阿武松親方(元益荒雄)に紹介され入門

「夢を持ってロシアから阿武松部屋に来た」との意味を込め、「阿夢露(あむうる)」の四股名がついた。

100㎏に満たない体重と十両を間近にした幕下8枚目の時に、左膝に重傷を負ったりと苦労が続いた(2010年7月場所)
2場所の全休等で三段目まで番付を落とすが、ケガの回復も相まって、復帰後わずか4場所で念願の新十両昇進を果たした(2012年1月場所)

しかし、それもほんの束の間でまた悲劇が襲う。
その新十両の場所で右膝靱帯断裂の重傷を負い、10勝1敗と優勝争いの先頭に立っていながらも13日目から休場して場所を終え、翌場所から5場所連続全休。
阿武松親方は進退を本人に任せていたようだが、阿夢露は諦めなかった。

今度は序二段(44枚目)まで番付を落とすも、復帰したその場所で7戦全勝優勝を皮切りに5勝⇒6勝⇒6勝⇒5勝⇒5勝⇒5勝と勝ち越しを重ね、見事2年ぶりの十両復帰を成し遂げる。

勢い止まらず、更にここから4場所連続勝ち越しで新入幕。
これは初土俵から所要74場所と外国出身力士では最も遅い新入幕記録となった。

その場所を5勝10敗で負け越し、十両陥落も1場所で幕内復帰。
しかし、この復帰から5場所後には、自己最高位となる東前頭5枚目まで昇り詰めた。
2016年5月場所はケガで途中休場となり、これを境に少しずつ番付降下。

2018年5月14日、両国国技館で会見を開き、引退を表明。
記者会見では引退後は日本に留まりスポーツトレーナーを目指す意向を示した。

現在では、千葉県内のジム「フレックス津田沼」でトレーナーとして活躍しており、四股や股割りなど、本物の相撲の要素を生かしたトレーニングを受けられるとある。

では、実際の相撲トレーニングの動画を2つ抜粋。

また、懇意にしている臥牙丸のyoutubeチャンネルに度々出演。

気心知れた臥牙丸との軽妙なやり取りの中にも、誠実な人柄が垣間見える。
そのやり取りがこのガガちゃんねるに無くてはならないものになっているようだ。

阿夢露ことニコライさんも掲載されてます↓↓↓

玉の海の横綱力と人間力

 現在のNHK大相撲中継専属解説者の一人である北の富士の現役時代の好敵手(ライバル)と目された51代横綱玉の海。残念にも現役中に志半ばで亡くなったが、横綱在位中の抜群の成績と、人間味あふれるエピソードをいくつか紹介したい。

新十両まで4年余り、新入幕までは初土俵から丸5年と順調な出世街道を歩む。

休場につながるようなケガもなく、大関昇進をそこ(新入幕)から3年足らずで成し遂げた。

昇進後の一年は、いずれも勝ち星が10勝に届かずに苦労したが、右四つからの投げ技や吊り技、双葉山の再来とまで言われた「後の先」の立ち合いで、2ケタの勝ち星を安定してつかむようになった。

後の先(ごのせん)とは・・・立ち合いで遅れて相手を受けて立つように見えながらも、実際には相手を制し先手を取ること。

雄大でスケールが大きい(立ち合い・相撲展開)と受け止めればいいんですかね。

師匠・片男波は、玉の海へ特に厳しく指導したとされ、(期待の証だったのだろう)大関時代に門限を破った罰として殴ったという逸話が伝えられている。

またこの頃から、師匠の指示によって神宮外苑の芝の上でランニングを行うようになった。
のちに貴ノ花や輪島も玉の海に見習い、取り入れたとされる。

1969年9月場所からの3場所を13勝(2度目の優勝)・10勝・13勝の成績を挙げて、1970年1月場所後に悲願の横綱昇進を果たした。
(この場所優勝した北の富士とともにダブル昇進)

~驚異の成績・横綱時代~

ここからが凄かった。

横綱時代の成績、在位10場所で優勝4回、130勝20敗 勝率86.7%を記録した。
横綱在位中のこの勝率は、昭和以降では双葉山、白鵬にに次ぐ第3位であり、病魔に冒されなければどんな偉大な横綱になっていたことか。

横綱3場所目の9勝を除いた(星の移り変わりは)13⇒12⇒14⇒14⇒14⇒14⇒13⇒15⇒12と超絶の勝ち星。

「北玉時代」と評された、北の富士との横綱同士の対戦成績は、北の富士の6勝4敗とほぼ拮抗。通算でも22勝21敗北の富士が1勝リードで完結した。

2人の対戦の動画の中から、玉の海最後の優勝(全勝)となった1971年7月場所の両雄の激突。

玉の海の渾身の寄りと、取組直後の両者がお互いの目を見合わせて健闘をたたえ合うような仕草が清々しかった。

~病気発症から~

この場所の前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなる。

大鵬の引退相撲では、太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川の引退相撲にも出場した。玉の海は出場後直ちに入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調だった。

ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。27歳だった。急逝後、遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急逝冠症候群及び右肺動脈幹肺血栓であることが判明し、右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。

玉の海の死に角界には衝撃が走り、最大のライバルかつ親友だった北の富士は、巡業先で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、「むごい……。あまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目もはばからず号泣したそうだ。

今年10月で没後丸52年を迎える。

こんな大横綱の現役時代に立ち会ってみたかったな。

玉の海を始め当時の名力士が掲載されてます↓↓↓

栃赤城七変化

 「豊昇龍の多彩な足技+宇良のアクロバットな動き÷2=栃赤城」

だいぶ無理があるか。

1980年前後に「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。

36手に及ぶ決まり手。

今でも語り継がれることの多い栃赤城は・・・、

1954年10月31日、群馬県沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として生れた。

高校では柔道部に所属し、国民体育大会に出場。この時に体重は既に100㎏を超えていたことが春日野親方(元横綱・栃錦)の目に留まり再三勧誘され、春日野部屋へ入門することとなった。

順調な出世を遂げ、1976年11月場所に22歳で十両に昇進。

1977年5月場所の新入幕昇進を機に「栃赤城」に改名。
この四股名は、故郷の名峰・赤城山にちなんだものである。

さぁ、ここから七変化の如く華麗なる技・相撲っぷりを紹介する。

最後の最後の一番に、すごいすごい取組が収録されていた。

同じことを言うようだが、足技の数々に豊昇龍を想起させ、
腕を巧みに使った(主に)小手投げ・とったり・逆とったりなどの技に宇良を思い返す。

技を繰り出すタイミングの見極め、カンがいいですよね(偉そうですみません)

~力士として~

逆転技に頼った相撲で多かったせいか、自身の体に次第に影響を及ぼしてくる。両足首のケガで大関への昇進は成らず、稽古嫌いであった上に、食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙(ヘビースモーカーとして知られていた)など自己管理の甘さも大成を妨げる形になった。

また、糖尿病も患いこの事も番付降下の一因とされている。

その後は、4年以上も幕下で相撲を取り続けたが、1990年3月場所限りで「廃業」

人付き合いが苦手で、ほとんど(タニマチ・後援者と)付き合わなかったことが、年寄株取得に至らなかったとされる。

~相撲界廃業後・ゴルフ場での急逝~

廃業後は実家の呉服店を手伝っていた。

1997年8月、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、やがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後に死去した。42歳の早世だった。死因は急性心筋梗塞であったという。

どこまでもマイペースで異端児的な生き方を全うした、栃赤城。

あり余る素質とセンスに埋もれたことが、早逝の運命を引き寄せたか。

いや、これも栃赤城流サーカス的な生き方なのかもしれない。

面白そうなDVDです。もちろん本人(栃赤城)も名を連ねてます↓↓↓

友綱偉人伝・戦闘竜 扁利

 去年2月、11代友綱(元関脇・旭天鵬)と5代大島(元関脇・魁輝)は年寄名跡を交換したことにより、61年の歴史に幕を下ろした友綱部屋。

所属していた関取も、特に10代(元魁輝)が育てた「魁」系の大関・魁皇、関脇・魁聖、十両・魁道などを中心とした個性的な顔ぶれが揃う。

また、2012年4月からは、当時の大島部屋の師匠(元大関・旭國)の定年により、力士・行司らを引き取った。により括りが変わるが、当時の「旭」系の関脇・旭天鵬、前頭・旭秀鵬、旭大星なども厳密に言えば(一時的に)入ります。

中でも今回は、アメリカ本土出身初の関取、引退後もプロ格闘家としても活躍した戦闘竜 扁利(せんとりゅう へんり)を取りあげる。

米軍のコンピューター技術師の父と、日本人の母の間に1969年7月16日、戦闘竜扁利ことヘンリー・アームストロング・ミラーは、東京都立川市に生まれ、6歳まで日本で暮らした。

1975年にアメリカミズーリ州セントルイスに転居。高校までを暮らす。

1987年に高校卒業後、親戚に勧誘され再び来日。

長年居住したセントルイスにちなんで「戦闘竜(せんとりゅう)」の四股名で1988年7月に友綱部屋から初土俵。

1994年11月場所に念願の十両昇進を果たす。

しかし、以降はひざや肩などのケガが続き、帰国も考えるほど心が折れかけたが、同部屋の親友・魁皇からの熱い説得を受け奮起。ついに2000年7月場所に悲願の新入幕を手にした。

ちなみに魁皇とは、彼(魁皇)が初優勝した時も、言葉を交わす事なく握手し抱き合い涙を流すほど信頼しあう仲だった。

強烈な突き押しを武器に幕内在位3場所、最高位は西前頭12枚目。

2003年11月場所、西幕下5枚目で2勝5敗で負け越したのを機に、15年に渡る力士生活を引退した。

通算成績:351勝253敗77休 
現役在位:93場所

各段優勝
幕下優勝:1回 (1999年5月場所)
序ノ口優勝:1回 (1988年9月場所)
を記録している。

~格闘家に転向~

翌2004年にプロ格闘家に転向し、PRIDEやHEAT興行などで活躍。

同年10月14日、マル・”ザ・ツイン・タイガー”と対戦し、KO勝ち。転向後、初勝利を挙げた。試合後、リング上で「相撲は強いんだよ!」とマイクアピールした。

2013年8月25日、引退試合となったDEEP 63 IMPACTで中村和裕と対戦し、パンチラッシュでKO負け。

現在は神奈川県平塚市にあるプラスチック製品やプラスチック金型の製造をする会社に勤務しているそうだ。

後年、某バラエティー番組で嫁との馴れ初めの紹介によれば、戦闘竜が右ひざの手術の為に入院していたある日、戦闘竜と同じ病室に嫁の友人がたまたま入院していて、それがきっかけで
お付き合いが始まり、最終的に結婚に至ったそうだ。

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