わがまま横綱の決まり文句と昭和60年の煌めき

「痛い、痛い」
「故郷へ帰らせてもらいます」

これ、第60代横綱・双羽黒(北尾)が、厳しい稽古を課せられると決まり文句のように発せられた言葉。裕福な家庭に育ち、甘やかされて育てられたことに起因しているのではと見立てられていたが、どこまで本当か。

1984年(昭和59年)初場所に新十両、彗星の如く現れた北尾光司。
そこから丸5年の関取生活の戦績を振り返れば、翌1985年(昭和60年)の躍進ぶりは(字面だけで見ても)凄まじいものがあった。
位置づけとしては、大関・横綱と飛躍する前の土台固めの一年。
その1985年は6場所中、2ケタ勝利5回を記録(三賞も合わせてこの5場所は獲得)5月夏場所は左足関節挫傷により途中休場しており星を落としていた。

中でも、心身共に卓越していた頃であろうこの年の名古屋場所に、千代の富士と隆の里の両横綱を下して金星を挙げた動画が残っていた。

まずは、5日目の千代の富士戦
(言うまでもなく)事前に熟考した作戦だと思われるが、自身の体格の優位さを最大限に活かし、且つ対千代の富士攻略のお手本とも言える理想的な取り口だった。

続いて8日目のおしん横綱・隆の里戦
がっぷり四つの力相撲であったが堂々と怪力横綱と渡り合い金星を掴み取った。

因みにこの場所の幕内優勝は大関・北天佑(2回目)
7日目からの9連勝で、北尾に1差をつけていた。

翌年(1986年)初場所に大関昇進。その「大関」を4場所で通過。
横綱昇進前の3場所を36勝9敗「優勝なし」で期待値かなり込みでの横綱昇進が決まった。

38年経った今、振り返ってもこの時点での横綱推挙は結果的に悪かったのか(=間違っていたのか)結局、幕内優勝を成し遂げることなく、最後は些細なことから不祥事に発展、相撲界を「廃業」という形で去っていった。

やはり確たる実績(=優勝)を1度でも掴み取らせてから推挙させた方がよかったのでしょうか。双羽黒を増長させてしまうような結末になってしまったのが残念でならない。

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