元大関・若嶋津六夫こと本名・日高 六男。
痩身ながらも左四つからの投げなどで上位陣に食ってかかった。
鹿児島県種子島に1957年(昭和32年)1月17日に生まれる。
中学校時代は歌手の長渕 剛と同級生(有名な話)
高校から相撲を始め、相撲部監督だった(坂口純治)に二子山部屋を紹介され入門(1975年3月 ※同期に元関脇・太寿山)
十両(関取)まで丸5年。その翌年に新入幕と順調にその帆を上げていった。
入幕後は一度も十両に陥落することなく、三役(関脇)へ。
大関までの直近3場所は(10・12・12)と合わせて34勝、昇進基準に文句なし。
大関昇進1年目の1983年(昭和58年)も2場所目のケガによる途中休場を除けば、全て2ケタと大関としては十分に及第点。
若嶋津六夫の土俵人生の絶頂は翌1984年(昭和59年)に訪れるのであった。
2回の(幕内)優勝、綱取りをすぐ手元まで手繰り寄せた。
1回目(初優勝)はこの年の3月春場所。
この場所西横綱の千代の富士は右股関節捻挫により8日目から途中休場。
そんな中で若嶋津は初日から11連勝。敗戦は12日目(当時)関脇の大乃国戦のみ。
最終成績14勝1敗。
他、成績優秀者は西張出大関・北天佑12勝3敗(4日目・出羽の花、12日目・隆の里、13日目・若嶋津に敗戦)
東横綱・隆の里と東9枚目・麒麟児が11勝4敗など。
若嶋津、初優勝を決めた一番↓↓↓
翌5月場所は9勝6敗と低調に終わったが、直後の7月場所で巻き返し全勝優勝(2回目の幕内優勝)を飾った。この場所の優勝次点が北の湖の11勝、10勝で(隆の里・北天佑・大乃国・佐田の海)と続き、深掘りすれば後に大関となる小錦と霧島が新入幕。更にあの北尾光司が十両優勝を成し遂げていた(西筆頭・12勝3敗)※千代の富士は全休。
翌9月場所に2度目の綱取りが掛かったが、終盤まで優勝争いに加わるも結局11勝止まり。連続優勝と綱取りを逸した。
次年からケガや糖尿病、内臓の病気に悩まされ成績が徐々に低迷。大関を守るのがやっとの状態だった。
1987年7月場所途中で引退。
千代の富士とは極端に相性が悪かった(若嶋津の3勝25敗)
引退後は年寄・松ヶ根を襲名、1990年2月に独立。松鳳山などを関取として開花させた。
現役では手塩に掛けて育てた一山本と島津海が活躍中(島津海は初場所の新入幕)
黒豹が蘇る↓↓↓
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