元大関・大受の栄枯盛衰

 突き押し相撲、おっつけ(脇の固さ)で大関まで上り詰めた大受久晃を振り返る。

小学校の修学旅行で泊まった函館駅前の旅館が高島部屋の勧誘を担当していた関係で、入門を誘われた。その後中学校入学間もない頃に、当時の高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家に訪れ熱心に説き落とす。他の部屋からも誘いがあったが、わざわざ家まで来てくれた高島部屋への入門を決意する。大受は10人兄弟の6男なので、入門に対する障害になるものがなく、スムーズに決まった。13歳の時に見習いとして上京。しかしその当時、規定の身長に12㎝も足りず、部屋近くの公園で身長を伸ばす目的で鉄棒にぶら下がり続けた苦労があった。

初土俵は1965年3月場所。結局シリコンを頭に入れた上の合格。
出世は早かった。十両までは4年半。
師匠からマンツーマンでの厳しい指導を乗り越えた末に掴んだ押し相撲で、新入幕の場所に技能賞を獲得。以降、三賞の常連となる。

大受の相撲人生の転機、最大の栄光は1973年(昭和48年)のこと。
春場所から小結で10勝(殊勲賞、3大関に勝利)関脇で11勝(殊勲と技能、2横綱・2大関撃破)関脇で13勝(3賞独占、1横綱・2大関打破)で文句なし、この7月場所後大関昇進が決定した。

※3賞独占はこの時点における史上初。翌場所に新入幕した大錦が横綱・大関を破るなどして2場所連続の3賞独占となったのは有名な話。

ここから手のひらを返したように、大受の力士人生は下り坂へとたどっていく。
腰痛やケガの影響で、大関在位はたったの5場所。関脇陥落の場所も9勝止まりで大関復帰ならず。以降も負け越しが多くなり、番付をじわじわと下降させていった。
引退を決めたのは、1977年5月場所。番付は西十両筆頭(当時大関経験者で初めて十両に陥落した)まで下げていた。

シリコンのエピソードに関して
・大受の現役時代の技術では一旦入れたシリコンは除去不能なため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた。
・相撲では「武器」になったらしく、当時の横綱・北の富士は「シリコンが入ってると、稽古しても痛かった。尖ってるから刺さるようで。たまったもんじゃないですよ」と述べたそうだ。
・引退後しばらくしてから、頭痛に悩まされるようになり、2009年春に除去手術を受ける。その時には頭の中でシリコンがグシャグシャになってたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだ。

私の印象としては
相撲好きになった頃には、勝負審判をしていた。いつもいつも四方のどこかに座っていた。
温厚で柔和な人柄が見た目から感じ取れた。
そんなところですかね。

貴重な映像・動画、対千代の富士戦が残っていた(昭和50年9月場所2日目)
この場所、新入幕で迎えた千代の富士の初勝利の一番というおまけ付き。
千代の富士、当時20歳・体重96㎏(推定) 
若い若い、細い細い! がぶり寄りで決めてみせた!

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