久しぶりの貴闘力部屋

 しばらくぶりに貴闘力部屋を見た。

(理由は)サブタイトルに【引退】逸ノ城が焼肉ドラゴで働きたいと言って来たら?力士のセカンドキャリアはオレ達に任せろ!とあったからである。

(タイトル前半部分)「ちょっと妄想が強すぎるだろ」「冗談にも程がある」と思ったが。

結局視聴者の興味をそそる、引きつけるタイトルだったみたいで、そこから(逸ノ城の)話に広がりや発展はありませんでした(1分ぐらいでその話題は終わりましたね)

力士の第2の人生(セカンドキャリア)って言ったら、やっぱりちゃんこ屋、焼肉屋など飲食店を経営・従事する者が大半だろう。

あと現実的なものとして(大きな体・体力を活かせる)という点では、整体師(マッサージ師)という道もある。元・三杉里は専門学校で2年学んだあと、中国で漢方医学などを学んだあと開業した。

介護業に転職し、その体格と体力を武器にして活躍する元力士も最近では多くいるようだ。

プロレスラーや格闘家に転向した者も今まで何人もいるが、本当に成功したと言えるのは、ごく一握りだと思う。歳を重ねる一方で、ダメージを蓄積する、癒すその作業も並大抵なものではないだろう。

会社員(サラリーマン)として働く者も(業種・職種問わず)少なくないのではないか。

共通して言えること(成功への道)ってなんだろう。

①まず、目の前(与えられた)仕事をひとつずつ覚えて、それを積み重ね繰り返すことで、仕事に慣れて、「できる」「任せる」という評価を勝ち取ること。

②それを継続しながら、その職場・雇用先を(できれば)辞めないこと。

③(個人でやるにしても)いろんな人と関わるのは不可避だから、いつでも謙虚に振る舞い、感謝の気持ちを忘れないこと(相手に伝えること)

④それに伴う礼儀と恩義を忘れないこと。

人間関係の摩擦や理不尽・不条理なことを乗り越えていける強さを自らに宿し、さらに辛抱・我慢を続けていけば、しばらく経ったのちに、明るい光が徐々に差してくるのかな。

15や18で力士になり、頑張って頑張って5~6年から7~8年(力士を)やったとして(最高位が)序二段や三段目で終わったとする⇒(世の中・一般職に投げ出されたとして)
それはそれで胸を張ってほしい。(他業種)に行っても耐える力は絶対に備わってると思います。

人生の勝ち組・勝利者って何なんですかね。

随分、主題(テーマ)とずれましたが、貴闘力チャンネルを見てふと思いました。

裏話が満載です↓↓↓

 

太寿山の花籠人生

 つい先日に当ブログで、元横綱・稀勢の里が師匠を務める二所ノ関部屋を取り上げた。
主旨としては、茨城県・阿見町の広大な土地に、新部屋を興した斬新なアイデアという旨のもの。

で、思い出したのが現・花籠親方(元太寿山)が、現役引退後、二子山部屋から分家独立したこと(一都三県以外に部屋を構えたという意味で)

背景としては、

11代花籠(元前頭・大ノ海)の次男は山梨県上野原町で不動産開発会社の代表を務めていたが、当時は閉鎖となっていた花籠部屋を再興するため、相撲関係者ではない人物に渡っていた花籠名跡を億単位の金を支払って入手した。しかし年寄名跡を襲名継承するのに必要な資格はないため、自ら花籠部屋を継承運営することはできなかった。

11代花籠の弟子である10代二子山(初代横綱・若乃花)は、事情を知ると自らの弟子で二子山部屋の力士であった太寿山を花籠部屋の後継者として推薦し、次男は自らの会社の本拠地である山梨県上野原町での相撲部屋開設を条件として名跡を譲渡した。これにより1992年、15代花籠(元太寿山)により花籠部屋が開設された。しかし他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障があり、1996年12月に部屋を墨田区両国に移転。これに反発した11代次男は年寄名跡の返還を求める民事訴訟を起こしたが、1998年9月、裁判は15代側が勝訴して決着した。(Wikizeroより)

この事実。
当時、何で山梨県(東京寄りの上野原)に相撲部屋を持つのかなと思っていましたが、こういう事だったんですね。中央線と総武線を乗り継いでも(電車に乗ってる時間だけでも)両国まで、1時間30~40分ちょっと。プラス徒歩の時間を入れればどのくらいの時間になるものか。

結果、あえなく4年で撤退(両国に移転)
訴訟まで起こされ、難しい問題に発展したそうだが・・・。

しかし、そこから16年後の2012年。
またも経営難を理由に(当時の)花籠部屋が閉鎖されてしまった。
当時所属していた十両荒鷲ら力士10人や行司、呼び出し、床山が同じ二所ノ関一門の峰崎部屋に移籍。太寿山(花籠)自身も峰崎部屋付きになった。

その峰崎部屋も、2021年に7代峰崎(元幕内・三杉磯)が定年退職するにあたり、同じ二所ノ関一門の高田川部屋に再移籍。流転の相撲人生か。

現在の花籠(太寿山)は、相撲協会理事(教習所長・危機管理部長・コンプライアンス部長・博物館運営委員)として活躍。定年まであと2年を切っている。

あの元関脇・太寿山です↓↓↓

なんてったってドルジ

 今月3日にモンゴル出身の元横綱・鶴竜の断髪式が行われ、第68代横綱・朝青龍がモンゴルから来日。鶴竜の髷にはさみを入れ、肩越しに声を掛け、長年の労をねぎらった。

 現在の朝青龍は(モンゴルで有数の)実業家 、モンゴル国民投資銀行(NIBank)の経営者、 タレント 、 コメンテーター 、 評論家 、 映画俳優 、 慈善家(他にもいろいろ) として多方面で活躍している。年収が10億円以上あるとか。

凄いですね、羨ましい限りです。

そんな朝青龍(ドルジ)の活躍ぶり、楽しげな表情の数々。

https://twitter.com/Asashoryu/status/1665207645794623488

どこまでもやんちゃで豪快、憎めない。
どこまでも型破りな朝青龍。
いつか会いたい、この元横綱と。
またの来日お待ちしております。

どこまでもドルジはドルジである。

いかがでしょうか、朝青龍Tシャツです↓↓↓

誕生日おめでとうございます

 ある方のツイートで気付かされた。
大嶽部屋の序二段(大鵬部屋最後の現役力士及び最後の入門者)森麗が今日36歳の誕生日を迎えた。

濃厚な力士歴の持ち主である。
初土俵から丸20年、ここまで119場所戦い、258勝558敗10休。内訳が
序二段戦歴 69勝168敗1休(34場所)
序ノ口戦歴189勝390敗9休(84場所)

新序出世から38場所連続負け越しという昭和以降のワースト記録保持者。
新弟子当初から勝つこともままならない相撲が続いていたが、経験を積むにつれて少しずつ白星も増えた。しかし、勝ち越しに至らない。当時、部屋付の親方だった現在の大嶽親方に再三引退を促されるも、本人は涙ながらに拒んだ。

~森麗に改名、光明が差す~

どこまで続く負け越し記録、いつまで続く暗闇トンネル。
2009年11月場所を前に四股名を本名の「森川」から「森麗」に改名。
「地方競馬のハルウララと重なる部分はある。負け続けてもみんなに愛される力士になってほしい」との願いが込められたそうだ。
心機一転を図ったことが功を奏し、この場所を4勝3敗で見事に勝ち越した。

しかし、これを機に番付が大きく上昇することはなく、序二段と序ノ口を行ったり来たりの現状が続いている。

森麗のwikipediaには、小学6年時の王鵬と部屋の稽古場で相撲を取り負けたことがあるとか、体験入門に来た相撲経験のない柔道部員の高校生にあっさりと寄り切られたなどの逸話もあった。

根っからの相撲人間なのだろう。
場所ごとの手当で相撲を取り続ける36歳。
これからもさまざまな話題を聞かせ続けてほしい。

大嶽部屋を応援します↓↓↓



栃ノ心に幸あれ!

 ジョージア出身の元大関・栃ノ心(春日野)が残念にも引退してしまった。
今年初場所にケガした左肩脱臼の影響がその後にも響いたようだある。

5月場所は初日から精彩を欠く5連敗で
「ダメだった。残念ながら。相撲になっていない。場所前は、こんな結果になるとは思わなかった」
「1月場所でケガして、そこから自分の相撲が取れなくなった。今場所も乗り越えられると信じていたけど、自分の相撲を取れず、力も出なくなった。相撲を取るのが怖くなりました」
などと語り、6日目に引退届を提出した。

栃ノ心。
振り返ってみると、四股名にある通り「心」を大切にしていた力士だったように思う。
※自らの不祥事、膝の大けがによる番付陥落、紆余曲折・苦労があって身に染みた部分も大きいと思う。

四股名の由来は、「お前は外国人力士だから日本人力士より尚更『心・技・体』の『心』を大事にしなきゃな」という師匠の考えがあったとか。

栃ノ心より約1年早く入門した兄弟子、元関脇・栃煌山の清見潟親方は、入門当時の言葉がわからない栃ノ心を「ニコニコして部屋の仕事も一緒にやっていました。人がいいからこそ、なじむのも早かった」と振り返る。更に「(相撲の)センスは抜群ですし、やればやっただけ、吸収して毎日強くなっていきました。栃ノ心の性格はやさしくて素直。そういうのも良かったと思います」と回想した。

幕内優勝を1回記録している。
優勝を決めた2018年初場所14日目の松鳳山戦である。

この場所を機に3場所後の同年7月場所に大関に登り詰めた。

そうそう。
大関昇進時の口上も印象的。
「親方の教えを守り、力士の手本となるように稽古に精進」
四字熟語や型にはまった言い方でもない、シンプルで素朴な言い回しが耳に残ったな。

(栃ノ心の)相撲人生に話を戻す。
怪我による番付(立場)の浮き沈み、それを乗り越えたことによって(力士・人間としての)強さ・厚みが増し、多数のファンからの支持を受けることができたのか。引退を決意して相撲界に残らないのか、残れないのかはわからないが(実績と人柄から)快く相撲界から送り出してもらえたのではないかと思う。

週刊誌報道によると、母国・ジョージアで父親のためにワインを生産するブドウ農場を作ろうとしているという話もあれば、祖国で歯科技工士の資格を取得しているなんて話も。

日本人よりも日本人らしいかもしれない。
どの道を進むにしても、私は応援する。

最後に同郷の親友、元小結・臥牙丸からの引退に寄せてのメッセージと、引退を決めた日の栃ノ心本人からの報告です。

17年間の土俵生活、本当にお疲れ様でした。

栃ノ心さん、お疲れ様でした↓↓↓