時津風部屋出身のタレントと言えば

 

~豊ノ島大樹~

 豊ノ島がタレントとして大活躍中だ。
現役時代からユーモア溢れるものまねや軽妙な語り口がウケて、バラエティ番組によく出演していたが、相撲協会退職後もあちこちからオファーが絶えず、多忙な毎日を送っている。
テレビ・ラジオ・CM・インターネット(youtube)など多数メディア出演。

力士としての最高位は、東関脇。
2010年11月場所では(西前頭9枚目)把瑠都・魁皇の2大関を破る活躍で14勝1敗の好成績。優勝決定戦まで進出した実績を持つ(ちなみに決定戦では横綱・白鵬に敗れて優勝は逃す)
相手の懐に潜り込み、鋭い左差しやもろ差しを決めての速攻相撲を得意とし、殊勲・敢闘各3回、技能賞4回受賞。金星を4個獲得。

元大関・琴奨菊の秀ノ山親方とは、中学時代からのライバルであり親友としても知られる。

豊ノ島の場合、これでよかったのかもしれない。(借株から)正式に年寄名跡取得して(仮に)独立・部屋持ちともなれば、どれだけの時間(期間)と資金が必要になってくるか。そういう事で気を揉むより、元から特性のあった芸能の世界で勝負するのもいい生き方だと思うなぁ。

~蔵間竜也~

続いては、「善戦マン」「蔵間天狗」こと蔵間竜也。
相当な実力者・素質の持ち主と言われていた。相撲好きであった昭和天皇も目をかけていた力士で期待が大きかったが、腰痛の持病に悩まされ出世には時間がかかった。加えて美男・ハンサム(今でいうイケメン力士)で豪快な遊びっぷりでも知られた。

こちらも最高位は、西関脇。
左四つがっぷりに組んでの吊り寄り、右上手投げを得意とし、敢闘賞1回と技能賞2回。金星を2個獲得した実績がある。

1989年9月場所限りで引退。年寄・錣山を襲名したが、病気のため1990年(平成2年)6月に廃業し袂を分かつ。

相撲協会を退職後はタレントに転向し、大相撲関係のコメンテーターとして活躍。
スポーツコメンテーターなどとしてTBS系『ブロードキャスター』などのバラエティ番組でも相撲担当ゲストとしてわかりやすい語り口で人気を博した。

しかし、1995年(平成7年)1月上旬に持病の白血病が急性転化し緊急入院。
同年1月26日、急性転化多臓器不全のため、42歳で死去。

偶然、時津風部屋同士ということで取り上げたが、相撲で出世し(2人とも関脇まで登り詰め)タレントとしても万人に受け入れられてる両人だ。

豊ノ島と蔵間を振り返りましょう↓↓↓

所属力士2人、錦戸部屋の広告塔的存在・水戸龍聖之

 錦戸部屋
2000年9月場所限りで現役を引退した元関脇・水戸泉が、高砂部屋の部屋付き親方期間を経て、2002年12月1日付で分家独立し錦戸部屋を創設した(墨田区亀沢)

水戸泉と言えば、制限時間いっぱいの時に大きく塩を撒く「ソルトシェイカー」と知られ人気を博した。幕内優勝1回を記録している(1992年7月場所)

この錦戸部屋、現在関取は1人(水戸龍)=部屋初の関取になるのだが、関取誕生まで15年以上かかった。

(ここからが本題)
他に力士が一人しかいない(序ノ口・葛錦)
合わせて2人だけ。「富士泉」という力士もいたが、去年7月場所以降は番付外で、現在所属しているのか引退しているのか、はっきりとした所在がわからなかった。

水戸龍に賭ける期待は大きい。学生横綱からプロ入り、幕下15枚目格付出デビューまでした逸材なのだから。
錦戸親方は「正直言って、どんな記録を作ってくれるのかと思った」と言い、「大きな体を使いきれず歯がゆかった。欲がなくて優しい」と明かす。

殻を打ち破る何かが必要だ。自ら積極的に出稽古に行き、いろんなタイプの関取と番数をこなし自信と逞しさをつけてほしい。墨田区周辺・近辺にはそれらを満たす精鋭達が所属する部屋がいくつもある。かつての千代の富士がそうであったように。

所属力士もろくにいない・致命的な稽古環境が恵まれない中、水戸龍という男は不平不満をもらすことなく、黙って相撲を取り続け、背中で生き様を見せ続ける。

錦戸部屋には、人脈とコネをフル活用して有望な若者を獲得できるように祈りたい。

※錦戸親方の実弟・元梅の里がマネージャーをしているとあるが、今はどうしているのだろうか。

暑気払いにご利用ください↓↓↓



ありがとう 曙 世代交代の時 ~小錦から曙へ~

曙 太郎が亡くなった。今月上旬に心不全で亡くなったとされる第64代横綱。
今日は曙の通夜が東京都内で営まれ、元横綱 若乃花の花田虎上さんや師匠だった元関脇 高見山の渡辺大五郎さんをはじめ大相撲関係者など約300人参列したという。

今日はこの曙の死を悼み、去年の8月に当ブログで投稿したものを加筆修正し、曙氏を追悼します。

ここから本文に入ります↓↓↓

時は1993年(平成5年)11月場所・13日目

当時の大関・小錦は7度目のカド番でここまで5勝7敗、まさに大関維持へ崖っぷち・剣が峰に立たされてた。
対する曙は最高位・横綱に君臨すること5場所目。2場所連続優勝中。
ハワイから18歳で来日。相撲の事など何も知らなかった青年は、強烈な突き押しを武器にわずか5年で頂点(横綱)まで登り詰め、更なる高みを見据えていた頃か。

まずは、その取組動画から。

曙、立ち合いすぐの右上手。小錦、力一杯のど輪でその右上手を切りにかかるが、曙が引き付けて離さない。そのままがぶって寄り切り。

小錦、39場所守り続けた大関の座を手放した瞬間だった。

律儀な曙は小錦に一礼する(※この場面は今でも目に焼き付いています)
対して小錦はいつだって寛大だった。取組翌日には小錦に自身の勝利を謝ったが「これからの力士であるお前が俺に勝てないでどうする」と叱責されたという。

結果的に小錦の大関復帰は叶わなかった。その後、横綱大関を目論む若手有望力士に「立ちはだかる壁」的存在として大いに土俵を盛り上げてくれた。

1997年11月場所・13日目、対琴の若(現・佐渡ヶ嶽、琴ノ若の父)に寄り切りで敗れ負け越しが決まり、引退。小錦は「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」と相撲に深い感謝を語った。

小錦 八十吉 幕内優勝3回、(最高位の)大関在位は39場所。

曙はこの場所(1993年11月場所)優勝した(6回目・3連覇)が、これを境に膝やヘルニアなどで休場が多くなった。
2001年の1月場所は、持病となった両膝のケガの悪化により全休。その1月場所終了直後の2001年1月22日、両膝の回復がこれ以上見込めないなどの理由により、突如現役引退を表明。
引退前年の2000年は7月と11月の2回優勝をしたにもかかわらずの現役引退だった。

曙 太郎 幕内優勝11回、(最高位の)横綱在位は48場所。

相撲人生(出世争い)は、曙の勝ち。
両者のその後の人生(相撲界を離れたあとは)小錦が大量リードしている(周知の通り)

現在の曙は、2017年頃から寝たきりで記憶障害・心臓疾患等を抱えているそうだ。
ともかく、リハビリ中とのことです。元横綱はつらい現実を長い間戦っている。

人生どこで何が起きるかわからない。

この2人の人生の対比からも、それを見て取ることができた。

と、やや小錦寄りの投稿になっているか。

元横綱として協会に残り続けられたらどんな人生になっていたのか、どういうタイプの力士を育てていたか。真面目で謙虚なまさに曙のような力士を育ててほしかったな、合掌。

曙よ、永遠なれ↓↓↓

1997年5月場所優勝 曙太郎 カード

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ダイエー・曙・ハンバーガー

 このダイエー・曙・ハンバーガーにたどり着く言葉・表現として「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がある。そもそも、

昭和(戦後期)の流行語とあり「子ども(を含めた大衆に人気のあるもの」の代名詞として、

  1. プロ野球の巨人軍
  2. 大相撲の横綱・大鵬
  3. 料理の卵焼きを並べたものである。 とあった。

曙が言い放ったこの言葉・フレーズは、「巨人・大鵬・卵焼き」に真似た感じの曙自身が好きだったダイエー(ホークス)とハンバーガーを前後につけたものと思われる。

曙が横綱として在位した1993年3月場所から2001年初場所までのダイエーホークスの成績として、最初の5年(1998年)は、前身の南海ホークスの末期を引きずるように下位に低迷する期間が長かったが、1999年のリーグ優勝をきっかけに常勝球団へと生まれ変わった。

曙自身力士としては、長身を活かした突き押しを武器として当時、同期だった若貴兄弟や後の大関・魁皇(現・浅香山親方)らと切磋琢磨しながら番付を駆け上がった。

1993年の3月場所に横綱へ昇進。翌年の5月に両膝を故障した後は優勝間隔が空くことが多くなり、結婚時にも個人後援会から強固に反対され、結果的に解散。引退後の相撲人生に影響を及ぼしたとされる(資金面で)

この「ダイエー・曙・ハンバーガー」は
そんな頃の曙 太郎が光り輝いていた時を象徴する言葉のひとつなのかもしれない。

好敵手・貴乃花との動画がありました。痺れる相撲の数々です↓↓↓

輝かしい横綱・曙のパズルカードはいかがですか↓↓↓

介護業で頑張る、元・舛ノ山

 舛ノ山大晴(ますのやま ともはる)
2010年11月場所から2015年3月場所まで関取として番付され(うち1場所のみ幕下)最高位は西前頭4枚目。

2010年ごろに医者から「肺が人より小さい」と忠告されたそうで、検査を受けた結果「心房中隔欠損の疑い」と診断されている。そのため、取組後は激しく息を切らせていた。(20秒しか戦えない力士として逆に話題にもなった)

しかし、それがゆえに常に早い相撲を求められ、そこに向けて絶えず全力・一生懸命さが伝わってくる相撲っぷり・ふるまいが人気を呼んだ。

この相撲なんかはそれらが顕著に見られる。

なんか今でいう熱海富士的キャラが少し被るでしょうか。

母親がフィリピン出身のハーフである舛ノ山は、フィリピンで生まれたのち1年足らずで千葉県に転居。小学3年からクラブに入り本格的に相撲を始め、わんぱく相撲や数々の全国レベルのアマチュア大会で実績を残した。
2006年7月に初土俵・千賀ノ浦部屋から(当時の師匠・元関脇舛田山)十両までは4年を要した。さらに1年後には、幕内入り。ケガの影響もあり1場所で陥落。その5場所後に復帰。そこから丸2年幕内に定着。唯一の三賞(敢闘賞)を受賞したのもこの頃だ(2012年7月場所)

次第に膝のケガが多くみられ、その影響で2014年頃から番付降下を余儀なくされる。

2015年3月場所が最後の十両での場所となった。
その後はケガや病気(難病)に苦しめられ、キャリア末期は稽古も満足にできず、歩くときには強い痺れがあり、腰痛の影響で廻しも締められなかったという。

現在は「介護職員初任者研修」の資格を取得し、東京都荒川区内の介護老人保健施設で第二の人生を歩み始めている。施設の方達にも愛され、人気を博しているのでは。

頑張れ、舛ノ山!!

力士時代↓↓↓

近影 別人のように瘦せられたそうです↓↓↓

今後も応援してるぞ!↓↓↓