はっきり言って実力派です

 宝富士 大輔 36歳(伊勢ケ濱)

来たる夏場所は西前頭10枚目に番付された。

かつては最高位「西関脇(2016年9月場所)」まで君臨した実力者である。

近畿大学出身。
アマチュア時代、数々のタイトルを手に高校・大学、そして同郷・青森県の先輩でもある、元横綱・旭富士が師匠の伊勢ケ濱部屋に入門。

某タレントに似ていると話題になった事もあるが、それは置いといて。

ここ数場所は年齢による衰えもあるのか、身体的な事情があるのかわからないが
2022年9月場所 東前頭5枚目 5勝10敗
  同年11月場所 東前頭8枚目 3勝12敗

と負け越したあと、8勝・8勝と勝ち越し、夏場所では西前頭10枚目と番付を上げてきた。

宝富士の取り口(勝ちパターン)は左四つ・左四つがっぷりに至る左差しが絶対的な形である。

会心の相撲としては、この白鵬戦が一番宝富士の利点が生かされた相撲だったように思う。
速い相撲だったし。

最近の伊勢ケ濱部屋というと、特に翠富士と錦富士の台頭が著しいが、忘れちゃならないこの実力派を。

妙義龍、碧山と並んで2位タイとなる現役幕内高年齢だが、「左四つの盤石相撲」をまだまだ見せ付けてほしいものだ。

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痛みに耐えてよく頑張った!  鬼の形相に至る3番

 2001年夏場所時点での貴乃花光司は、横綱在位38場所・幕内優勝21回を数えていた。

経歴を振り返ると、20回目の優勝から21回目の優勝まで13場所要している事や(この期間中)肩や腕などのケガにより2場所休場したりと、力士(横綱)としてのピークが徐々に過ぎているのは、本人も自覚していたと思う。

当時の番付(星取表)を見渡せば、
横綱 東 貴乃花 西 武蔵丸
大関 魁皇・武双山・出島・雅山・千代大海の5人。
後の横綱・朝青龍は西小結
同じく白鵬に至っては、初土俵した次の場所で、東序ノ口16枚目の番付というから時代の違いを感じさせる。

本題に戻る。
当の横綱・貴乃花は、初日から13連勝で(不戦勝1を含む)優勝争いを独走していた。
14日目、武双山に巻き落としで敗れた際に、右膝半月板を損傷する大けがを負った。
その一番。

(千秋楽の出場に対して)関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため強行出場した。
テーピングすらせずに土俵入りを済ませ、迎えた武蔵丸との横綱対決(本割り)

ご覧の通り、立合いの変化に全くついて行けず敢え無く敗退。
これで武蔵丸と相星となり、続く優勝決定戦。

前日の武双山戦で、立つことも困難なほどの重傷を負ってもなお、どうやったらここまで自分を掻き立てることができるのか。気迫満点の素晴らしくも輝かしい相撲だった。

取組直後の鬼の形相、興奮冷めやらぬ表情での勝ち名乗りを受ける場面は今も記憶に新しい。

~当時の首相が来場した名場面~

これで終わりではなく、続く表彰式には観戦に訪れていた当時の小泉純一郎首相が内閣総理大臣杯の授与を自ら行い「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と賛辞を送った。
(動画 5:55あたりから)

しかし、皮肉にもこの22回目優勝が貴乃花最後の優勝となった。
右膝の故障はかなりの重症だったのである。
この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、2003年1月場所途中で現役引退を表明したのだった。

今思えば、小泉首相の表彰式来場と貴乃花に対する賛辞は、相撲の神様からの演出だったのかもしれない。

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小錦の横綱を阻んだ夏場所の出来事

 元大関・小錦八十吉。

ハワイ・オアフ島出身、(入門時から)規格外の体格と強烈な突き押しで「黒船襲来」と恐れられた。

現在ではタレントやハワイアン音楽のアーティストとして活動。

特にNHK Eテレ「にほんごであそぼ」には「コニちゃん」として放送開始から出演。
子供達からも高い人気を得ている。

また、ネットショップの「KONISHIKIショッピングモール」の経営、相撲観戦ツアーの開催や各種イベントへの出演など、多忙な日々を送る毎日だ。

~北尾との伝説の一番~

そんな小錦の相撲人生の転機となった一番がある。

1986年5月場所・8日目(天覧相撲)に組まれた北尾戦(のちの横綱・双羽黒)だ。

ここまでの小錦は同年1月(小結で)10勝、3月(小結で)12勝を上げており、大関獲りがかかっていた。

実際の取組である。
最初の一番では土俵際の攻防で、北尾の足(つま先)か、小錦の体かで物言いがつき、協議の結果「取り直し」と発表となった。
(私自身はこのスロー映像で見る限り)完全に北尾の足が先に出ているように見えたが。

さて取り直しの一番。
小錦が突っ張りから前に出ようとする。北尾の差し手を許さない。
北尾右四つ左上手でいい形。寄る北尾、こらえる小錦。
小錦が巻き替え、もろ差しになったところを北尾が勝負を賭けて寄る、小錦が土俵際で踏ん張り、吊り上げようとしたところで北尾の鯖折りが決まった。

小錦はこの一戦で、右膝じん帯損傷・骨折の大ケガを負う。
その次の7月場所を全休。大関獲りも振り出しになった。
加えて右膝は完治することなく、現役時代はこの後遺症で苦しむことになった。

~その後の二人の人生~

北尾は優勝経験のないまま、その翌々場所の1986年7月場所後に第60代横綱へと昇進した。

直近3場所の星取は、10勝⇒12勝(優勝次点)⇒14勝(千代の富士に本割りで勝つも、決定戦で敗れる)横綱審議委員会では反対意見があるも、最後は多数決によって決定した「期待値込み」の横綱昇進になる。

横綱昇進後も、合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの最後は逃している。

1987年12月、師匠らと衝突し部屋を脱走。突然の廃業となり、世間を大きく騒がせた。

以後、スポーツ冒険家・プロレスラー・総合格闘家へと転向を重ねるが、どれもうまくいかなかった。

プロレス(格闘家)の引退から5年後の2003年にフリーの立場で、(短期間ながら)立浪部屋のアドバイザーに就任。

(晩年は)角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。

2019年3月に長らく公の場に姿を現さなかった北尾の訃報が明らかになった。
同年2月10日に慢性腎不全のため千葉県の病院で55歳で死去。2013年頃から闘病生活を送っていたという。

一方の小錦

一旦は振り出しになった大関獲りへ向け、休場明けとなった1986年9月場所から連続して2ケタ勝利。

1987年5月場所後に念願だった大関昇進を果たす。さらに外国出身力士としては史上初めての快挙だった。

横綱を期待されたものの、苦手・北天佑に苦杯をなめさせられたり、膝の故障の影響で勝ち越しても8~9勝止まりの成績が続く。

それでもその後に幕内優勝3回を記録した。

外国人力士であるがゆえの苦労や辛酸をなめることもあったようだが、小錦は耐えた。

1993年11月場所後に39場所務めた大関陥落も、幕内力士として現役続行。

そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、13日目に敗れて負け越しが決まると千秋楽を待たずに引退することになった。

引退に際して小錦は「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」と語ったそうだ。

~後年、小錦は振り返る~

小錦が大関時代の1987年11月場所後、横綱・双羽黒の廃業を機に協会・横審とも横綱昇進について極めて慎重な姿勢を取るようになり、「双羽黒は小錦の横綱昇進を阻んだ最大の加害者」と見る好角家も多かった。それでも小錦本人は双羽黒を恨まず、逆に「あのケガがあったから大関になれた」とコメントしている。

一人の感情ある人間として、不平や不満は必ずあったはずだが、それらをそっと胸の中にしまい、感謝の言葉を口にする小錦の器の大きさに、今日(こんにち)の成功している理由がわかる気がした。

小錦の貯金箱です↓↓↓

けっぱれ!安治川部屋

 安治川部屋のLINEに友だち登録をしているため、部屋の最新情報などがよく入ってくる。

今年7月1日に江東区石島に新設される部屋の建設工事・進捗状況が最新のお知らせであった。

稽古場や大部屋などができてきて、鉄砲柱も設置されたようだ。

現在、弟子は3名。

安櫻(あんざくら)※親方のおいにあたる (インターハイ出場などアマチュア相撲経験あり)
四股名の由来・・・櫻のように咲いてほしいという思い

安強羅(あごうら)
四股名の由来・・・ポルトガル語で「今」という意味で、「この瞬間を大切にしてほしい」という願いが込められている。

十河(そごう)・・・先場所(三月)初土俵 ※本名だそうです

※(外国人の)研修生として、ヤブグシシン・ダニーロ。(愛称・ダーニャ)

と、徐々に第2の安美錦を育てる基盤が整いつつある。

~親方・安美錦の現役時代~

右四つ・出し投げで崩していく形が得意ながらも、時には立ち合いからの突き押し、足技も見せる臨機応変な多彩さがあった。

それがゆえに、珍しい決まり手で勝利することも度々あった。「大逆手(おおさかて)」「裾取り(すそとり)」などである。

2003年7月場所に、膝の大ケガを負ってからは、常にケガとの戦いだった。
それでも諦めず2010年頃からは特注のカーボン製の装具をつけ、上位陣に挑み続け食らいついた。

幕内在位:97場所
三役在位:15場所(関脇6場所、小結9場所)の数字が示す通り、横綱大関陣をよく苦しめた。

三賞:12回(殊勲賞4回・敢闘賞2回・技能賞6回)

金星:8個(貴乃花1個、武蔵丸1個、朝青龍4個、白鵬1個、鶴竜1個)

通算成績:907勝908敗55休 勝率.500

現役在位:135場所 と輝かしい実績を残した安美錦 竜児だった。

※本日、番付発表があり、
安櫻・・・東序二段20枚目
安強羅・・西序二段107枚目
十河・・・西序ノ口16枚目
となっている。

夏場所は今月14日(日曜日)が初日だ。
今から待ち遠しい。

安治川親方スペシャル!!↓↓↓

玉の海の横綱力と人間力

 現在のNHK大相撲中継専属解説者の一人である北の富士の現役時代の好敵手(ライバル)と目された51代横綱玉の海。残念にも現役中に志半ばで亡くなったが、横綱在位中の抜群の成績と、人間味あふれるエピソードをいくつか紹介したい。

新十両まで4年余り、新入幕までは初土俵から丸5年と順調な出世街道を歩む。

休場につながるようなケガもなく、大関昇進をそこ(新入幕)から3年足らずで成し遂げた。

昇進後の一年は、いずれも勝ち星が10勝に届かずに苦労したが、右四つからの投げ技や吊り技、双葉山の再来とまで言われた「後の先」の立ち合いで、2ケタの勝ち星を安定してつかむようになった。

後の先(ごのせん)とは・・・立ち合いで遅れて相手を受けて立つように見えながらも、実際には相手を制し先手を取ること。

雄大でスケールが大きい(立ち合い・相撲展開)と受け止めればいいんですかね。

師匠・片男波は、玉の海へ特に厳しく指導したとされ、(期待の証だったのだろう)大関時代に門限を破った罰として殴ったという逸話が伝えられている。

またこの頃から、師匠の指示によって神宮外苑の芝の上でランニングを行うようになった。
のちに貴ノ花や輪島も玉の海に見習い、取り入れたとされる。

1969年9月場所からの3場所を13勝(2度目の優勝)・10勝・13勝の成績を挙げて、1970年1月場所後に悲願の横綱昇進を果たした。
(この場所優勝した北の富士とともにダブル昇進)

~驚異の成績・横綱時代~

ここからが凄かった。

横綱時代の成績、在位10場所で優勝4回、130勝20敗 勝率86.7%を記録した。
横綱在位中のこの勝率は、昭和以降では双葉山、白鵬にに次ぐ第3位であり、病魔に冒されなければどんな偉大な横綱になっていたことか。

横綱3場所目の9勝を除いた(星の移り変わりは)13⇒12⇒14⇒14⇒14⇒14⇒13⇒15⇒12と超絶の勝ち星。

「北玉時代」と評された、北の富士との横綱同士の対戦成績は、北の富士の6勝4敗とほぼ拮抗。通算でも22勝21敗北の富士が1勝リードで完結した。

2人の対戦の動画の中から、玉の海最後の優勝(全勝)となった1971年7月場所の両雄の激突。

玉の海の渾身の寄りと、取組直後の両者がお互いの目を見合わせて健闘をたたえ合うような仕草が清々しかった。

~病気発症から~

この場所の前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げたが、これが結果として玉の海の生命を縮めることとなる。

大鵬の引退相撲では、太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川の引退相撲にも出場した。玉の海は出場後直ちに入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調だった。

ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく午前11時30分に死亡が確認された。27歳だった。急逝後、遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急逝冠症候群及び右肺動脈幹肺血栓であることが判明し、右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。

玉の海の死に角界には衝撃が走り、最大のライバルかつ親友だった北の富士は、巡業先で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、「むごい……。あまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目もはばからず号泣したそうだ。

今年10月で没後丸52年を迎える。

こんな大横綱の現役時代に立ち会ってみたかったな。

玉の海を始め当時の名力士が掲載されてます↓↓↓