1960年前後に存在した三賞に匹敵する賞とは

 昨日の「豊山3代」投稿で初代・豊山を調べていたら「雷電賞」という言葉に出くわした。

雷電賞

意味合いとしては、読売新聞社から贈られていた賞で、選考委員会の決議で決まる三賞とは異なり、関脇以下で最高成績をあげた力士が自動的に受賞する。また同成績の場合は決定戦を行わず番付上位の者が受賞となる。

1955年3月場所から制定され、1965年11月場所まで続いた。
最多受賞者は時津山・羽黒山(=安念山)・豊山(初代)・鶴ヶ嶺(福園3兄弟の父)の4回。 とビッグネームが並ぶ。

この表彰は、権威あるものとして受け止められ、三賞受賞者の記念撮影のときにも、三賞受賞者のなかで雷電賞も受賞した者は、軍配をかたどり、その上に雷電の手形を浮き彫りにした記念楯(歴代受賞者が刻まれたプレートが貼られる、持ち回りのもの)を並べて撮影することがならわしとなっていた。

Wikipediaにはいろいろ詳細が書いてあり、私自身が生まれる前のことで全く知らず初めて知りました。

雷電 爲右エ門(らいでん ためえもん)
西暦1800年前後にかけて(江戸相撲で)活躍した元大関(雷電てよく聞くんですけど、調べたら最高位が大関だったんですね)
現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

雷電の画像です↓↓↓

200年以上も前の話で、大相撲の興行形態などだいぶ異次元な話・感覚が多いのですが、こうして語り継がれ、一時的にも四股名をつけた賞が存在するぐらいの凄い力士だったのでしょう。

雷電賞=関脇以下の優勝力士

という解釈でいいのでしょうか、またひとつ学びました。

雷電の創作絵本、面白そうです!↓↓↓

ウルフ伝説 ~対寺尾戦・吊り落としの巻~

 通算1045勝・幕内優勝32回を誇る、大横綱・千代の富士 貢。
思い出の一番と言ったら数あれど、この対決も忘れられない。
その千代の富士が、当時26歳の若武者・寺尾を吊り落とした一番だ。

1989年11月場所5日目

寺尾は当時、その場所を含めた三役在位連続8場所中の2場所目。終わって振り返れば寺尾の全盛期。対する千代の富士は34歳を迎えていたが、この1989年はここまで3度の優勝を飾っており、まだまだ衰え知らずの強さを発揮していた。

寺尾はこの年の初場所に(8度目の対戦で)千代の富士を外掛けで破っている。2匹目のどじょうを狙うとばかり威勢よく大横綱に挑んだ。結果はその時の復讐と言うか「公開処刑」のような幕引きだった。

立ち合いから回転のいい突っ張り、千代の富士は堂々と受けて立つ。「来てみろ!」「ほら来いよ」とばかりに。結果はひとしきり「突っ張らせておいて」ウルフは寺尾の右腕をたぐり、後ろにまわる格好になって土俵に叩きつけるように「吊り落とし」が決まった。

同じことを書くようだが、寺尾の愚直で一途、勝利への思いの込めた突っ張りの矢を次々に悠然と(平然と)受け止めて、力の差を「吊り落とし」という技で体現してみせた。

大横綱としての証がそこにある。

千代の富士対寺尾の取組は17回の対戦があるが、なんてったってこの一番が代表的・忘れられない対決だ。

34年経った今、愛弟子阿炎との2ショット↓↓↓


世代交代の時 ~武蔵丸から朝青龍へ~

 今やモンゴル人力士全盛時代。秋場所の番付を見渡しても幕内で6人(北青鵬を除く)十両で4人、合わせて10人いる(間違えていたら失礼)それまでは「相撲の外国人力士」と言えば「ハワイ出身」が定番・決まり文句みたいな感じだった。

調べてみれば、あの横綱・武蔵丸を最後に(2003年で)ハワイ人の力士が日本の大相撲にいないという状態になった。誰もが知ってる代表例で挙げれば、高見山・小錦・曙・武蔵丸の系譜がここで途切れたことになる。

そしてこの辺から「外国人力士=モンゴル」という構図に変わってきた。
主な理由としては
・モンゴルでNHKの大相撲中継が放送され、弟子志願者が多くなったこと
・モンゴル国技の「モンゴル相撲」が大相撲に応用が効くこと
・貨幣価値の違い・・・出世すればお金持ちになれる  など

先駆者として上げられるのは旭鷲山(元小結)そこから(象徴的な横綱として)朝青龍・白鵬・照ノ富士と続く。 

「武蔵丸」「朝青龍」

ここで世代交代の時。
この武蔵丸と朝青龍の対戦は9回あって、武蔵丸の5勝4敗。
8回目の対戦、朝青龍が武蔵丸に最後に勝った相撲の動画があった。

2002年(平成14年)7月場所・14日目

武蔵丸はその前の3月・5月と2場所連続優勝。最後の輝きを放っていた時期。
朝青龍も関脇として2場所連続11勝、この場所に大関獲りがかかっていた。

朝青龍がこの相撲に勝ち、12勝を挙げ大関昇進を果たした。
武蔵丸は10勝5敗でこの場所終了。翌9月場所で自身最後の12回目の優勝を挙げたあと、致命的な左手首の故障を患い全快することなく、翌2003年11月場所途中で引退となった。

以後、朝青龍は大関も3場所で通過。2場所連続の14勝1敗の優勝で横綱を勝ち取り、伝説に残る大横綱として君臨した。
武蔵丸は引退後、借株ということもあり部屋付き親方を長く勤めたあと、先代武蔵川親方(三重ノ海)の停年退職により年寄「武蔵川」を取得。念願の独立を果たしている(2013年4月)関取はまだ輩出していないが一時、甥の武蔵國が所属していたが幕下止まり。2019年9月場所限りで引退している。


今日は外国人力士「ハワイ」と「モンゴル」の歴史が交差する時期、歴史が切り替わる一番・取組に焦点を絞ってまとめてみました。

朝青龍ファン必見!!↓↓↓

 

高見盛が一番輝いた日

 現役時代の高見盛(現・東関親方)は、1度だけ当時の朝青龍に勝ったことがある。
2003年7月場所8日目の事。当時の番付は朝青龍が東横綱で横綱在位3場所目「偉大な横綱」として君臨するその礎を築いている時期だった。一方の高見盛は西前頭3枚目。この年から永谷園のCMにも出演。実力も人気もうなぎ上りに上昇中の頃だった。

いざ大一番へ。ロボコップと形容された気合注入シーンから。

相撲は、立ち合いすぐに高見盛が左上手を取る。この左上手が命運を分けた。朝青龍すぐさますくい投げで振るが強引。高見盛、チャンスを逃さんばかりに得意の右のかいなを返し、渾身の寄り切り!座布団が大量に(異常なほど)舞い飛ぶ愛知県体育館、高見盛も一礼する直前に「ヤッター!」と叫んでいたのだろう、明らかに口がそう動いていた。高見盛と観客の歓喜の渦はしばらく鳴りやまなかった。

高見盛はこの場所5日目にも横綱・武蔵丸相手に金星を挙げて、2横綱・2大関(武双山・千代大海)を破る大活躍、9勝6敗で殊勲賞を受賞した。

その後、長らく幕内で活躍。2011年9月場所に十両陥落後も奮闘を続けていたが、2013年初場所限りで引退。現在は審判部に配属され、あの独特の高見盛キャラはここでも生かされてる。

早いもので引退後10年が経つんですね。

これはユニークな逸品です↓↓↓

がぶり寄りを回顧した

 がぶり寄り・・・相手の廻しを自分の方へ引き付けて腰を上下に揺り動かしながら寄り進むことである。寄り進むうちに相手の腰が浮き自身の腰が相手より低くなる形が理想型とされる。

このがぶり寄りで、力士として大関まで駆け上がり成功を収めたのは琴風琴奨菊

琴風豪規
いろいろ調べていると琴風は元々下半身が硬く、また後に膝の怪我に(あれだけ)悩まされ、いかに膝への負荷・負担を少なくさせることなどを合理的に考え習得した技らしい。

1981年3月場所2日目 対横綱 輪島戦

この相撲なんかは、琴風の良さがよく出て且つがぶりを修得した理由・経緯などが集約された理詰めの相撲ではないかと思う。

またこの相撲は大横綱・輪島の現役最後の一番になり、“歴史”の重なった対決でもあった。
琴風はこの3場所後に初優勝を果たし、その次の場所に大関昇進を決める。
琴風にとってこの輪島戦は、ケガから復活後の分岐点となった懸け橋的な取組になったのではないか。

琴奨菊和弘

琴奨菊のがぶり寄りは、左を差してがぶり寄りで相手を一気に寄り切るのを得意とする。左四つの型を持ち、右上手を取らずに右からのおっつけや右で抱えて相手の左を封じながら寄る、珍しいスタイルだった。
彼のがぶり寄りは入幕からしばらくした頃の把瑠都戦でたまたま出たことがきっかけで得意技となったという。なのでアマチュアからプロ入りし、下積みの頃に習得したものではないらしい。

2011年5月場所千秋楽 対大関 把瑠都戦

がぶり寄りの醍醐味、お手本のような相撲である。
(上述から)しかしこの相撲ががぶり寄りへの契機になって開眼したかは定かでない。

琴奨菊はこの3場所後に大関昇進を決めた。そこから大関を32場所勤め上げた。
2017年3月場所で関脇に陥落。以降も金星3個獲得するなど輝きを放つ。
2020年11月場所8日目に引退。
年寄・秀ノ山を襲名し、独立するという話がかねてから聞こえてきてたが、計画は進んでいるのか。

がぶり寄りと言えば、この佐渡ヶ嶽の2大レジェンドをすぐ思い出したが、元関脇・荒勢(花籠)も得意としてましたね。相撲界廃業後タレントなどで活躍したあの荒勢です。

琴風の時代を懐かしみましょう↓↓↓