追悼場所へ、高砂のホープが挑む

 大ちゃんこと、4代朝潮太郎(先代高砂)が亡くなって早や一週間。
この九州場所はその先代に追悼の意を表する場所となる。
高砂の力士達は気持ちを奮い立たせてくるだろう。

現在関取は2人(元大関・朝乃山と十両2場所目の朝紅龍(石崎))
次なるホープは誰かなぁと調べれば、最新の番付には幕下が8人。
この8人の中で最上位(東幕下4枚目)に番付されてるのが「深井」である(本名)

深井拓斗

1997年9月10日生まれ 石川県羽咋市出身 26歳
小学校2年から相撲を始め、6年生の時にわんぱく相撲出場から中学横綱、元大関・出島を筆頭に実力者を多数輩出した金沢市立工業高校時代も全国大会で個人・団体ともに優勝や上位入賞を経験。東洋大学進学後も(相撲部で)活躍はしてきたが優勝(アマチュア横綱や学生横綱)には縁がなかったようだ。
卒業後、母の勧めもあってプロ入り、高砂部屋に入門した。
アマチュアでの実績が認められ、三段目100枚格付出デビュー。
プロ2場所目に夢道鵬(大嶽・貴闘力の4男)と決定戦で三段目優勝を争い勝利した。
以降は幕下に戦場を移し、丸3年が経つ。
特に今年夏場所以後は
東幕下17枚目
西幕下12枚目
西幕下8枚目 でそれぞれ4勝3敗と力士として大きな意味を持つこの番付でしぶとく勝ち越しを重ねてきた。

過去の自己最高位西幕下4枚目から0,5枚上げて「東」幕下4枚目で勝負の場所に挑む。

大ちゃんといつまでも↓↓↓



ご当地で勝負を賭ける、島津海

 九州場所のご当地力士、十両から幕内へ大勝負を賭ける力士がいる。

島津海 空(しまづうみ そら)
鹿児島県種子島(西之表市)出身
父は地元・草相撲の強豪力士。そのため現役時代の大関若嶋津と相撲を取る機会があり、この時の縁が自身の松ヶ根部屋入門に繋がったという。

小学校1年から廻しを締めて地域の大会に出場したこともあるそうだが、特筆すべき実績は挙げておらず、ほぼ未経験から中学校卒業と同時に当時の松ヶ根部屋に入門した(師匠・若嶋津)

三段目に上がるまで初土俵から1年かからなかったが、そこから幕下まで3年ちょっと。さらにその時から十両まで5年以上かかった。この間に休場が3場所あり、三段目との往復が続いた時期もある。

去年3月に念願の新十両入りを決めた場所途中に自身を育ててくれた若嶋津が停年。
十両昇進後は2ケタ勝利こそないもののコツコツと番付を上げ、いよいよ勝負の時がきた。

速く動いて、いかに得意のもろ差しに持ち込めるかがカギとなる。
種子島出身、浅黒い肌、どこまでも前師匠の若嶋津を彷彿とさせるこの島津海の活躍に期待したい。

十両昇進を決めた時の会心の一番がありました↓↓↓

現師匠とともに放駒部屋を盛り上げる↓↓↓

続・育盛物語

 ありふれた言い方だが月日・歳月が経つのは早いものである。
異色・珍名力士の育盛が去って相撲界を早や9年が経った。
当ブログでこの育盛を取り上げてから、1年以上が経つ。

(皆様のおかげで)この投稿はコツコツと着々とアクセスを集めている。
ありがとうございます。

そうこうしているうちに、YouTubeを見ていたら更新されていた、育盛の近況を伝える動画が。
聞けば半年ぶりの更新で、この間は大なり小なり鬱状態が続いていたそうだ。
現状では「食事が難しい」とのこと。
食べれる時は食べれるけど、食べれない(ひどい時)には戻してしまうこともあるとか。
鬱って、想像できなくて難しい。
体重も10㎏以上も以前より減ってしまったとのこと(60㎏弱)と、元相撲取りを感じさせない現状だ(元々、相撲をやるには)軽量すぎたが。

今後についても語ってくれた。
・(なるべく)動画の投稿頻度を増やすこと。
・今までは(複数本の動画を)限定公開だったのを元通りに公開していくつもり。
など語っていた。

一角度(いちかくど)からひたすらに元・育盛が映し出され、ある種声明のような動画ではあったが、育盛こと田井 雅人が元気そうにやっていることだけは確認できた。

珍名四股名を名乗ったがゆえに、ここまでスポットを浴び続けるのも「育盛」こと田井雅人の運命か。

育盛は今月8日で27歳を迎える。
彼の今後の人生・道のりは誰にもわからない。

https://www.youtube.com/watch?v=DFfl9UQG9lE

相撲シーズン到来だ↓↓↓




正代直也、32回目の誕生日🎂

 相撲協会公式ツイッターを見れば、今日はなんとあの正代の32歳の誕生日ではないか!

今場所(九州場所)は、東前頭2枚目。
まだまだ幕内上位の一角として活躍する使命があり、それは若手力士の壁・お手本的存在であり続けることを意味し、三役上位陣に対しても名前だけで心理的プレッシャーを与え続けられる力士だ。

先場所は東の3枚目で8勝7敗。
3連敗スタートからの9日目終了時点で3勝6敗で「これは(勝ち越しが)難しい」と思っていたが、そこから巻き返して翌10日目以降は5勝1敗で最終的に勝ち越してみせた。

何が言いたいかって、得意の右四つ(右差し)に持ち込んだらまだまだ全然いける!
具体的に挙げれば、先場所13日目以降のラスト3番は力強かった。

今場所(熊本県出身の正代は)ご当地九州場所。
地元・宇土市に正代の勝利を祝う祝砲の花火を何発打ち上げることができるか。

ちょうど1週間後の日曜日、正代が九州場所の土俵に降臨する!

これくらい気迫あふれる、闘志をむき出しにするような相撲を見せてほしいものだが↓↓↓

このタオルを手に正代に念を送ろう↓↓↓

こんな感じです↓↓↓

竹葉山、師匠として

 12代宮城野こと竹葉山真邦。
失礼だが、力士として現役時代はそんなに大成したわけではないが、引退後に年寄宮城野を襲名して後の白鵬 翔ことモンゴル出身 ムンフバト・ダヴァジャルガル少年との出会いが相撲人としての竹葉山の人生(立ち位置や存在感)を大きく変えた。

入門当時身長175cm、体重68kgしかなかった白鵬だが、大きな手足と腰、柔らかい筋肉を見るに、もしかしたら化けるかもと思い、入門してからの2ヶ月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ牛乳を飲ませ続けたり、当時部屋の経営に余裕がなかったにもかかわらず白鵬の口に合う鹿や羊の肉をわざわざ予算を割いて調達したという。

当時の面影が甦る↓↓↓

こうして、竹葉山の白鵬に対する環境作り・バックアップ体制と本人(白鵬)の並はずれた努力と血と汗と涙の結晶・積み重ねが調和し、「大横綱」の称号を手元に引き寄せることになる。

しかしその反動と言ってはなんだが、20代で数多くの栄光を手にした白鵬は(どこまで本人の自覚があったかわからないが)力士として人として徐々に「肥大化」していったのは否めない事実だと思う。
当時、話題になった横綱としてあまり相応しくない行為として挙げられるものとして
・(立ち合い時の)かちあげ
・(立ち合いや取組中の常軌を逸した)張り手(ビンタ)
・(肘に着用していた)サポーター疑惑(何か入っているのでは?)などと言われた。

そしてここまで(白鵬が横綱として)いろんな記録・実績を打ち立てると
「師匠」と「弟子」の肩書・言葉の持つ意味が段々と薄らいできた印象が少なからずあった。
「師匠」の最高位は前頭13枚目
「弟子」は横綱を張っていたのだから。

「師匠」としての「弟子」白鵬に対する舵取りやコントロールは(当時)自然と難しくなっていったのではないかと勝手に推察するが。
亡くなった朝潮が、朝青龍の扱いに苦労していたように。

話が横道に逸れた。
時の少年(後の)白鵬が縁あって入門したのは、竹葉山が師匠の宮城野部屋。
(白鵬が)冨と栄光を築いたのも宮城野部屋。
竹葉山は白鵬を育てるのにこれ以上ない労力を注ぎ込み、大横綱に育て上げ「名伯楽」と呼ばれるまでになった。

竹葉山は、弱小だった宮城野部屋を一大勢力にまでになる基盤を作り上げ、更なる栄光への架け橋を白鵬へ受け継いだ大人物である。

宮城野部屋の歴史の証人です↓↓↓