忘れられない ヒョー、ショー、ジョウ!

 幕内最高優勝賞品・・・幕内優勝を達成した力士に贈呈される賜杯、賞状および副賞である。その数・規模は半端じゃない。現在では20種類以上の表彰に対し、時間も40分以上かかる。

各国の友好杯、地方自治体の賞、その他民間企業・団体から賞状・トロフィー・金一封などが主に授与される。

この千秋楽に行われる優勝表彰式。
私が子供の頃、楽しみにしていたある企業からの表彰。

「パンアメリカン航空賞」の授与である。

中でも忘れられないのが、この賞の授与・贈呈役だった。

パンアメリカン航空(パンナム)元極東地区広報担当支配人だった、デビッド・ジョーンズ氏によるあの読み上げである。

パンナムは1953年5月場所から幕内優勝力士に対して「パンアメリカン航空賞」を出していて、ジョーンズ氏を観戦に連れて行った前任者が表彰式での賞授与を担当していた。しかしこの方がパンナムを退職。会社はこれを機に賞の中止を決めたが、ジョーンズ氏が反対し、最終的に賞は存続されたが、存続を主張した当時の極東地域広報担当支配人だったジョーンズ氏が賞の授与を引き継ぐことになった経緯があるらしい。

こうして1961年5月場所から、賞の贈呈を担当することになった。賞の授与に臨んだ際に観客が式に退屈している様子を見てとると、あえて大声で「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げ、注目を浴びた。翌場所からは和装で登場、呼出しの力を借りず一人でトロフィーを持つなど、式を盛り上げた。地方場所では、現地の方言で表彰状を朗読したりと人気を博した。

1991年、体力の限界を感じたジョーンズ氏は引退の意向を相撲協会に伝えた。表明後、大阪で開催された3月場所では表彰状朗読後「みなさん、おおきに、さいなら」と方言で挨拶、最後の贈呈となった5月場所でも、旭富士への表彰の後、土俵上から観衆に別れを告げた。

2005年に、母国・アメリカで89歳でお亡くなりになったそうです。

ジョーンズさんによる表彰式って30年も続いたんですね。
あんなに楽しみに待ちわびていた優勝表彰式って、なかったよなと今でも時折思い出します。

動画は上から順に東京場所、九州(博多弁バージョン)です。

パンナムTシャツで夏を乗り切ろう↓↓↓

 

木瀬部屋・古豪2人の昨今

 幕下15枚目以内。
十両への昇進を目指す者と十両下位の力士との間で、最も競争の厳しい地位。
関取(十両以上)と、力士養成員(幕下以下)との境目にあり、給料の有無に関わってくる。関取経験者も多く番付されており、人生模様と人間模様が複雑に交差する趣深い情緒ある番付・立場だ。

木瀬部屋のベテラン・元幕内力士2人がこの荒波の中で揉まれている。
一人は徳勝龍(西6枚目・36歳)※幕内優勝経験者
一人は明瀬山(西7枚目・37歳)である。

2人とも、5月夏場所で2勝5敗。関取復帰へまた遠ざかった位置に下がることになる。

30代後半になっても、プライド・過去の栄光をかなぐり捨てても土俵に上がり続け、輝きを取り戻してほしいと思う半面、年寄株は既に取得しているのか、取得する予定や計画、メドが立っているのかと引退後も継続して相撲人生が送ることができるのか、お節介な気持ちと勝手に取り越し苦労をしている自分がいる。

幕下15枚目以内(幕下上位)は、現実と夢と理想の交差点なのか。
今日もいろんな事を教えられ、メッセージをもらった気がする。

明瀬山カード5種です↓↓↓

翔猿ブラザーズ

 岩崎兄弟(翔猿と英乃海)の現在。

翔猿の実兄と知られる、英乃海(木瀬)は、今年5月の夏場所まで8場所連続十両。
弟の翔猿は(同じく5月場所まで)17場所連続幕内と、すっかり立場と伴う印象も逆転してしまった。英乃海はその5月場所で、東十両11枚目にて6勝9敗の負け越しに終わり、十両の座も首の皮一枚どうか・・・、というところまできている。

加えて弟とは、個性・キャラクターもだいぶ異なる。

しかし、相撲人(力士)としての経歴は決して引けを取らない。

兄弟共に埼玉栄高校・日本大学卒業。
兄は木瀬部屋(2012年5月)、弟は(2015年1月場所)に、兄と同じだと甘えが出ると追手風部屋に所属した。

2017年7月場所には、史上18組目の兄弟関取となる。また、別々の部屋に入門した兄弟による兄弟同時関取は、史上3組目の事例と脚光を浴びた。

2021年3月場所以降、同年11月場所まで5場所連続で幕内の番付を維持してきた岩崎兄弟だが、2022年1月場所(英乃海の)不祥事発覚により、1場所出場停止処分から立場と番付が完全に逆転。話題性に関しても随分差がついたように思う。

兄・英乃海は、新十両昇進時に伴う四股名として「木瀬ノ富士」という四股名も候補に挙がっていたとされる。
部屋の呼称に富士ですか…。活躍して聞きなれれば、ぴしゃっとはまったでしょうけどね。
どうなっていたことやら。

弟・翔猿は「独自路線」をひた走る。
「猿みたい」な動きで「他の力士がまねできない速い相撲を取りたい」と意気込みの通り、速い相撲に活路を見出している。

持ち味・タイプ・体格、兄弟2人の違いがあるようだがここはひとつ。
兄・英乃海により一層の奮起を期待して(促して)幕内でもう一度、兄弟で場所を土俵を盛り上げてほしいものだ。

翔猿トートバッグはいかがですか↓↓↓

久しぶりの貴闘力部屋

 しばらくぶりに貴闘力部屋を見た。

(理由は)サブタイトルに【引退】逸ノ城が焼肉ドラゴで働きたいと言って来たら?力士のセカンドキャリアはオレ達に任せろ!とあったからである。

(タイトル前半部分)「ちょっと妄想が強すぎるだろ」「冗談にも程がある」と思ったが。

結局視聴者の興味をそそる、引きつけるタイトルだったみたいで、そこから(逸ノ城の)話に広がりや発展はありませんでした(1分ぐらいでその話題は終わりましたね)

力士の第2の人生(セカンドキャリア)って言ったら、やっぱりちゃんこ屋、焼肉屋など飲食店を経営・従事する者が大半だろう。

あと現実的なものとして(大きな体・体力を活かせる)という点では、整体師(マッサージ師)という道もある。元・三杉里は専門学校で2年学んだあと、中国で漢方医学などを学んだあと開業した。

介護業に転職し、その体格と体力を武器にして活躍する元力士も最近では多くいるようだ。

プロレスラーや格闘家に転向した者も今まで何人もいるが、本当に成功したと言えるのは、ごく一握りだと思う。歳を重ねる一方で、ダメージを蓄積する、癒すその作業も並大抵なものではないだろう。

会社員(サラリーマン)として働く者も(業種・職種問わず)少なくないのではないか。

共通して言えること(成功への道)ってなんだろう。

①まず、目の前(与えられた)仕事をひとつずつ覚えて、それを積み重ね繰り返すことで、仕事に慣れて、「できる」「任せる」という評価を勝ち取ること。

②それを継続しながら、その職場・雇用先を(できれば)辞めないこと。

③(個人でやるにしても)いろんな人と関わるのは不可避だから、いつでも謙虚に振る舞い、感謝の気持ちを忘れないこと(相手に伝えること)

④それに伴う礼儀と恩義を忘れないこと。

人間関係の摩擦や理不尽・不条理なことを乗り越えていける強さを自らに宿し、さらに辛抱・我慢を続けていけば、しばらく経ったのちに、明るい光が徐々に差してくるのかな。

15や18で力士になり、頑張って頑張って5~6年から7~8年(力士を)やったとして(最高位が)序二段や三段目で終わったとする⇒(世の中・一般職に投げ出されたとして)
それはそれで胸を張ってほしい。(他業種)に行っても耐える力は絶対に備わってると思います。

人生の勝ち組・勝利者って何なんですかね。

随分、主題(テーマ)とずれましたが、貴闘力チャンネルを見てふと思いました。

裏話が満載です↓↓↓

 

太寿山の花籠人生

 つい先日に当ブログで、元横綱・稀勢の里が師匠を務める二所ノ関部屋を取り上げた。
主旨としては、茨城県・阿見町の広大な土地に、新部屋を興した斬新なアイデアという旨のもの。

で、思い出したのが現・花籠親方(元太寿山)が、現役引退後、二子山部屋から分家独立したこと(一都三県以外に部屋を構えたという意味で)

背景としては、

11代花籠(元前頭・大ノ海)の次男は山梨県上野原町で不動産開発会社の代表を務めていたが、当時は閉鎖となっていた花籠部屋を再興するため、相撲関係者ではない人物に渡っていた花籠名跡を億単位の金を支払って入手した。しかし年寄名跡を襲名継承するのに必要な資格はないため、自ら花籠部屋を継承運営することはできなかった。

11代花籠の弟子である10代二子山(初代横綱・若乃花)は、事情を知ると自らの弟子で二子山部屋の力士であった太寿山を花籠部屋の後継者として推薦し、次男は自らの会社の本拠地である山梨県上野原町での相撲部屋開設を条件として名跡を譲渡した。これにより1992年、15代花籠(元太寿山)により花籠部屋が開設された。しかし他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障があり、1996年12月に部屋を墨田区両国に移転。これに反発した11代次男は年寄名跡の返還を求める民事訴訟を起こしたが、1998年9月、裁判は15代側が勝訴して決着した。(Wikizeroより)

この事実。
当時、何で山梨県(東京寄りの上野原)に相撲部屋を持つのかなと思っていましたが、こういう事だったんですね。中央線と総武線を乗り継いでも(電車に乗ってる時間だけでも)両国まで、1時間30~40分ちょっと。プラス徒歩の時間を入れればどのくらいの時間になるものか。

結果、あえなく4年で撤退(両国に移転)
訴訟まで起こされ、難しい問題に発展したそうだが・・・。

しかし、そこから16年後の2012年。
またも経営難を理由に(当時の)花籠部屋が閉鎖されてしまった。
当時所属していた十両荒鷲ら力士10人や行司、呼び出し、床山が同じ二所ノ関一門の峰崎部屋に移籍。太寿山(花籠)自身も峰崎部屋付きになった。

その峰崎部屋も、2021年に7代峰崎(元幕内・三杉磯)が定年退職するにあたり、同じ二所ノ関一門の高田川部屋に再移籍。流転の相撲人生か。

現在の花籠(太寿山)は、相撲協会理事(教習所長・危機管理部長・コンプライアンス部長・博物館運営委員)として活躍。定年まであと2年を切っている。

あの元関脇・太寿山です↓↓↓