出る出る出島の初優勝

 7月・名古屋場所、長らく開催場所であった愛知県体育館も老朽化し、2025~2026年までには現在地から800メートル北の名城公園北園内の野球場に移転新築するそうだ。

ということで、7月場所(名古屋場所)歴代優勝力士で検索したところ、目に留まった項目がこれ。

1999年7月場所優勝力士・出島武春(西関脇)である。

背景としては、前年(1998年9月場所から)小結4場所、関脇1場所の計5場所を連続勝ち越しできていた。

迎えた当場所。2横綱・2大関撃破、最終成績13勝2敗で幕内優勝にプラス三賞受賞。
場所後に大関昇進を決めたのであった。

来歴を少し。
アマチュア相撲経験後、1996年3月場所に幕下付出で初土俵。当時の部屋には武蔵丸や武双山といった稽古相手に恵まれ、番付を駆け上がっていった。

立ち合いからの鋭い出足を生かした速攻相撲が持ち味。
「出る出る出島」という愛称は、そこから発せられたものらしい。
初優勝を遂げた場所では、当時の横綱・貴乃花を9日目に撃破しており、「出島の出足は横綱級だよ」と言わしめた。

こうして翌場所から大関に昇進するも、振り返れば在位は12場所(2年)にとどまった。
2度目のカド番で迎えた2001年7月場所、蜂窩織炎による発熱で緊急入院で6日目から途中休場。再出場は叶わず、大関の座から退くことを余儀なくされる。退院後もしばらくは38度台の高熱に苦しんだ。

関脇陥落後も連続して負け越しが続き、番付を落としていく。
応援していた人々、後援会の会員数が「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語るほどに減っていく悲哀も味わった。

その後は主に幕内上位から中位で活躍。2008年1月場所は、27場所ぶりに小結復帰を果たしたものの、大きく負け越し、これが現役最後の三役の場所となる。

2009年7月場所11日目に豊ノ島に敗れて十両陥落が濃厚となったため、この相撲を最後に現役引退を表明した。

引退後は年寄・大鳴戸を襲名し、藤島部屋付きの親方として後進の指導に当たっている。現在は審判委員として土俵下から厳しくも相撲愛に満ちた目線で取組の勝敗を見極め続けている。

暑い夏こそ相撲なしにはいられない↓↓

 

尾上部屋の一番星

 北天海 葵(ほくてんかい あおい・東幕下28枚目)は、現在尾上部屋(師匠元小結・濱ノ嶋)の出世頭である。

あの元幕内・貴ノ岩を叔父に持つ⇒⇒

中学校までモンゴルで過ごし柔道を経験、得意技は内股だった。

高校は埼玉栄高校に入学(経緯は不明)
相撲部監督に勧誘されて、高校1年次から相撲を始めた。

同期には琴勝峰など。

高校卒業後は尾上部屋に入門。外国出身者に課せられる6ヶ月間の研修期間や、興行ビザ取得待ちがあったため、高校卒業から1年4ヶ月後の2019年7月場所に初土俵。

序二段と三段目で各段優勝を経験している。

幕下15枚目以内をここまで6場所経験。

目標・憧れの力士は元大関・北天祐。
四股名もやはり北天祐に由来していて、北天海の「海」の字には「モンゴルから海をわたって日本に来た」という意味が込められているそうだ。

部屋付きの音羽山親方(明るく元気な解説でおなじみの元・天鎧鵬)の見立てによれば、北天海は「離れてよし、組んでよし。両方磨いていけば関取が見えてくる」「一番はハートが強い」とのこと。

まだまだ奥底に眠っている才能があると受け止めた。

女性用扇子と憧れの「北天祐」が掲載されている雑誌です↓↓↓


 

 

良き親友・良きライバル 琴奨菊と豊ノ島

琴奨菊と豊ノ島。
同年齢で同級生、奇しくも初土俵も一緒の同期生で大親友であることは、相撲ファンの間で広く知られている。

琴奨菊和弘こと菊次一弘は、1984年1月30日、福岡県柳川市で建設会社の社長をしている父の三男として生まれる。柔道の山下泰裕に影響された祖父の下、小学3年生で相撲を始め、毎日2時間の稽古を行い、隣のグラウンドで100メートルのタイヤ引きを1時間かけて40本行い、牛乳は毎日1リットル飲み、学校にはにぼしを持参という相撲の英才教育を受けた。

豊ノ島大樹こと梶原大樹は、1983年6月23日、高知県宿毛市で豆腐店を営む長男として生まれる。こちらは小学校時代、毎朝特大のおにぎり6個(米6合分)を食べて登校するなどして力士としての素養を磨いていた。

そんな2人は、「わんぱく相撲」の小学生時代からの戦友で「お互いが意識」ライバルとしてしのぎを削っていた。

中学・高校とアマチュア大会でお互いに活躍し、プロ入り。選択したのは
菊次(琴奨菊)が佐渡ヶ嶽部屋、梶原(豊ノ島)が時津風部屋だった。

十両までの道のりは琴奨菊2年半(15場所)、豊ノ島2年4ヶ月(14場所)とほぼ拮抗。

そんな2人の出世争いに変化が生じたのが2011年。
琴奨菊が初場所から関脇に定着し始めた。
その年の夏場所から、10勝・11勝・12勝で見事に大関昇進を果たしたのだ。

琴奨菊と言えばがぶり寄り。その看板・代名詞とも言える一番がこちら。

昇進伝達式で「大関の地位を汚さぬよう『万理一空』の境地を求めて、日々努力精進致します」と口上した大関在位は32場所を数えた。

その間の豊ノ島は、度々関脇・小結に名を連ねるも、そこからの厚い壁・上の番付に上がることはなかった。

琴奨菊、悲願の初優勝を2016年初場所に遂げるも、その3場所後の7月場所で古傷の左膝とアキレス腱などを痛め途中休場。翌2017年春場所には関脇へ陥落。時に33歳。

2018年以降は、三役復帰は叶わなかった。
2020年9月場所・2日目の明生戦で左ふくらはぎを痛め休場。このケガが力士人生に対して「ダメ押し」となる。
翌11月場所・西十両3枚目に下がったが現役続行。2日目に松鳳山に勝利したのみで1勝5敗と振るわず、現役引退を発表した。

豊ノ島は、2016年7月場所を目前にした稽古中に、左足のアキレス腱を断裂する大ケガに見舞われ、2場所連続で全休。番付も幕下7枚目まで後退、関取復帰まで2年を要した。
2019年にも今度は右足のアキレス腱を痛め、途中休場。このけがを皮切りにじわじわと番付を下げ、2020年1月場所・東十両11枚目の地位で4勝11敗の負け越し、引退を示唆したがこの時点で7歳となる愛娘に「お相撲さんでいてほしい。普通のお父さんになってほしくない」と言われて再起を決意するも、翌3月場所・東幕下2枚目で2勝5敗と負け越し。
場所後に引退を表明した。
自身の引退に際して「悔いはありませんけど、あるとすればもう1回、菊(琴奨菊)とやりたかった」とコメントした。

琴奨菊は年寄・秀ノ山を襲名。近い将来に独立し、部屋開設の準備中であると聞く。

一方の豊ノ島は年寄・井筒を襲名したが、今年1月に相撲協会に退職届を提出。
現在は、タレントとして活躍。現役時代からバラエティ番組に出演時にものまねや軽妙なトークのやりとりで人気を博していたその才能が生かされてるようだ。

琴奨菊と豊ノ島。
わんぱく相撲からの対決や、相撲人生での紆余曲折の重なり合った偶然は何を意味するのか。
今後の2人の活躍ぶりをしっかりと見届けたい。



王鵬に託す

 何を託す

・幕内上位定着を
・三役上位陣を脅かすような存在感をみせてほしい
・基本的な取り口をもっと荒々しいぐらいの積極さがほしい

自己最高位の西前頭6枚目まで上げてきた。

スケールや潜在能力が高いと思っているので、どうしても口やかましくなってしまう。

腰高や消極的に取られる引きや叩きは矯正していこう。

(性格的に)優しいのか、人がいいのかわからないが詰めの甘さも見えなくもない。

190cm・179㎏と横綱を張ってもいいぐらいの立派な体格をどうしても持て余してるように見える。

同期生・豊昇龍と激しい番付争いをしていたのも今は昔。
はっきりと(番付面で)差がついてしまった。

番付上(今場所の)三役上位陣との総当たりはないと思われるが、星次第(状況次第)ではあるかもしれない。

北海道日本ハムファイターズの中心選手・清宮幸太郎と小学4年時にわんぱく相撲で対戦したのは、スターへの架け橋だったのか。

自己最高位で迎えた今場所は王鵬の相撲人生にとって、あるきっかけをつかみ取れるか取れないか、意味のある場所なのかもしれない。

頑張れ!王鵬関↓↓

愛知県出身の名力士・鳳凰倶往

7月・名古屋場所に因んで。

鳳凰倶往(ほうおう ともみち)

愛知県蒲郡市出身、二所ノ関部屋所属。

1971年秋場所初土俵
1990年夏場所引退
同世代の関取(主な顔ぶれ)としては、麒麟児・大徹・大善といったところか。

うん。鳳凰、懐かしいなぁ。

愛知県出身ということで、出てきた慕わしい四股名。

みかんや新鮮な海の幸が豊富に獲れる街で知られる蒲郡出身の元関脇・鳳凰。

1978年夏場所から、47場所連続関取。最高位は東関脇(1984年7月場所)

三賞とは縁がなかった。最高位が関脇の力士で、三賞を受賞できなかった力士は鳳凰のみ(びっくり(◎_◎;)しかし、金星は3個記録している(2代目若乃花2個、千代の富士1個)

当時の二所ノ関部屋関取の立ち位置としては、麒麟児と大徹の間に挟まれたやや地味な存在のように思われたが(失礼)実力派よろしく(昭和以降)歴代2位タイの十両優勝4回を記録している。

因みに1位が益荒雄の5回
2位タイの顔ぶれが、鳳凰の他に、若の里(西岩親方)・小城ノ花(出羽海親方)・大錦(元年寄・山科)・播竜山(元年寄・待乳山)・朝登(元年寄・東関)などビッグネームが並ぶ。

1990年5月場所限り廃業後、サラリーマンや間垣部屋でコーチをしていた時期もあったとか(2代目・若乃花が親方だった頃)

2013年1月に56歳で亡くなっている。

私の小学校・中学校・高校時代に関取として君臨していた鳳凰。

彼もまた忘れられない力士の一人である。