がぶり寄りを回顧した

 がぶり寄り・・・相手の廻しを自分の方へ引き付けて腰を上下に揺り動かしながら寄り進むことである。寄り進むうちに相手の腰が浮き自身の腰が相手より低くなる形が理想型とされる。

このがぶり寄りで、力士として大関まで駆け上がり成功を収めたのは琴風琴奨菊

琴風豪規
いろいろ調べていると琴風は元々下半身が硬く、また後に膝の怪我に(あれだけ)悩まされ、いかに膝への負荷・負担を少なくさせることなどを合理的に考え習得した技らしい。

1981年3月場所2日目 対横綱 輪島戦

この相撲なんかは、琴風の良さがよく出て且つがぶりを修得した理由・経緯などが集約された理詰めの相撲ではないかと思う。

またこの相撲は大横綱・輪島の現役最後の一番になり、“歴史”の重なった対決でもあった。
琴風はこの3場所後に初優勝を果たし、その次の場所に大関昇進を決める。
琴風にとってこの輪島戦は、ケガから復活後の分岐点となった懸け橋的な取組になったのではないか。

琴奨菊和弘

琴奨菊のがぶり寄りは、左を差してがぶり寄りで相手を一気に寄り切るのを得意とする。左四つの型を持ち、右上手を取らずに右からのおっつけや右で抱えて相手の左を封じながら寄る、珍しいスタイルだった。
彼のがぶり寄りは入幕からしばらくした頃の把瑠都戦でたまたま出たことがきっかけで得意技となったという。なのでアマチュアからプロ入りし、下積みの頃に習得したものではないらしい。

2011年5月場所千秋楽 対大関 把瑠都戦

がぶり寄りの醍醐味、お手本のような相撲である。
(上述から)しかしこの相撲ががぶり寄りへの契機になって開眼したかは定かでない。

琴奨菊はこの3場所後に大関昇進を決めた。そこから大関を32場所勤め上げた。
2017年3月場所で関脇に陥落。以降も金星3個獲得するなど輝きを放つ。
2020年11月場所8日目に引退。
年寄・秀ノ山を襲名し、独立するという話がかねてから聞こえてきてたが、計画は進んでいるのか。

がぶり寄りと言えば、この佐渡ヶ嶽の2大レジェンドをすぐ思い出したが、元関脇・荒勢(花籠)も得意としてましたね。相撲界廃業後タレントなどで活躍したあの荒勢です。

琴風の時代を懐かしみましょう↓↓↓

豪太郎の首投げ

 相撲の決まり手は82手ある。
カテゴリーとしては「基本技」「投げ手」「掛け手」「反り手」「捻り手」「特殊技」などに分かれる。
現在の武隈親方(元大関・豪栄道豪太郎)は、得意とは言わないが時折、苦し紛れの「首投げ」を見せることがあった。
この「首投げ」、少なくとも決まり手の「王道」ではなく、この技はプラスイメージとか、いい相撲だったと語られる決まり手ではあまりない。

どちらかと言えば、「苦し紛れ」「一か八か」「やぶれかぶれ」といったマイナスな印象が先行する。

しかし、元大関は現役中、この決まり手で24番制してみせた。この24のうち3番は横綱に対してのものである。
動画もあった。2015年夏場所12日目、時の横綱・白鵬戦である。

※首投げ・・・左右どちらかの手で、相手の首を巻きつけ、巻き込むようにして投げる。とあった。 

この場所の豪栄道は大関5場所目、前場所(大関4場所)までは8勝が3回、5勝10敗の負け越しが1場所と、お世辞にも「大関」という肩書に見合った実績は上げていなかった。

この白鵬に対して首投げを決めたこの場所も8勝6敗1休と左肩剝離骨折のため14日目から途中休場とパッとしたものではない。

豪栄道の現役を終わって振り返ってみても、大関在位33場所中、優勝1回と2ケタ勝利7回。(途中休場含む)負け越しが10回と正直言って横綱を狙えるような器ではなかった。

引退から3年余りが経過して、去年(2022年2月)から武隈部屋を東京都大田区に創設。部屋頭は躍進著しいあの豪ノ山である。

37歳、一国一城の主の夢と目標はやはり自身が成し得なかった「横綱を育てること」だそうだ。

豪栄道に染まれ↓↓↓

世代交代の時 ~千代の富士から貴花田へ~

 2日連続貴乃花ネタで。

日本中の注目を集めて、若貴兄弟は1988年3月場所に初土俵を踏む。
兄弟で切磋琢磨し、先輩力士(兄弟子)からの様々な妬みにもめげず、毎日の猛稽古を積み重ね、
十両昇進:17歳2ヶ月、幕内昇進:17歳8ヶ月と驚異的なスピードで番付を駆け上がっていった。
そんな(当時の)貴花田に大一番が訪れる。
1991年5月場所の初日に、幕内優勝31回、53連勝などの記録を持つ大横綱・千代の富士への取組が組まれた。

当時の千代の富士を取り巻く状況は、この前年の1990年に優勝を2回記録(1月と11月)3月場所・7日目の花ノ国戦で通算1000勝を達成も夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、1991年になり、初場所2日目に逆鉾との一番で左腕を痛めて途中休場、翌場所も全休した。
35歳となり、大横綱の現役生活もいよいよ佳境に入ってきた頃だった。

その決戦。
貴花田右差し。千代の富士はその貴花田の右をおっつけて差し手を嫌う。貴花田左前みつを引く。千代の富士はこれを切るも、貴花田一気呵成に頭をつけながら前に出て寄り切った!18歳9ヶ月での史上最年少金星獲得!

取組後の千代の富士は、18歳の新鋭に対して「三重丸って言っておいてよ。いや五重丸だ」と最大級の賛辞を送った。この時点では引退かと思われたが当時の師匠・北の富士に翻意され現役続行。「もう1敗したら引退する」と決意して、翌日の板井戦に勝ち、3日目の貴闘力戦で完敗。その日の夜に緊急記者会見し現役引退を表明した。引退理由として「最後に貴花田と当たってね、若くて強い芽が出てきたなと。そろそろ潮時だな」と貴花田戦の衝撃を挙げた。

今でも語り継がれている千代の富士の引退会見とそのきっかけとなった貴花田戦、千代の富士自身が初優勝を遂げた1981年初場所・北の湖との優勝決定戦の2番を合わせて。

奇しくも、貴花田の父「角界のプリンス」こと元大関・貴ノ花も大関候補とも呼ばれ、当時日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れると、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したといわれている。そこから11年が経ち、貴ノ花の息子・貴花田に千代の富士は引導を渡された。

この因縁から32年が経った。貴ノ花と千代の富士は鬼籍に入っている。
貴乃花は相撲協会を退職、現役時代から常人ではあり得ないほどの紆余曲折・辛酸をなめた。
そんな貴乃花再婚のうれしいニュースを聞き、念頭に浮かんだことを書いてみた。

秋場所総決算号が新発売!↓↓↓

明瀬山のいない本場所

 明日から秋場所が始まるが、私は明瀬山がいないことに耐えて慣れないといけない。
「パンの山」と形容されるほどの揺れる垂れ下がる乳房や腹、力士としてのルーティンは(最初の仕切りで)平泳ぎのような仕草を1~2回。
(軍配が返ったあとの)最後の仕切り(立つ直前に)何かに祈るように両拳を額の辺りに持ってくる(やったり・やらなかったり)
対戦力士に攻勢をかければ「行け行け!」逆に守勢に回り追い詰められれば「頑張れ頑張れ!」(明瀬山が)勝った時の喜びと嬉しさ。負けた時の切なさとやるせなさ・・・。もう味わうことができない。

明瀬山の引退が発表されたのは、番付編成会議後の8月10日。年寄「井筒」を表明。その関係で秋場所の番付には「西幕下6枚目」にまだ「明瀬山」が存在している。

「井筒親方」としての最初の仕事は、慣例からすれば「館内警備」の仕事をするものだと思われる。紺色ジャンパー姿にネクタイを締め、花道奥で立ったり座ったり。人混みにならない程度に観客に適宜注意を与え、花道の安全を守る。元横綱の白鵬や稀勢の里でさえも、最初はこの仕事からだった。
さらに相撲グッズ売場のようなところで(主に親方ちゃんねるで活躍している面々なんかに混じって)一生懸命に販売に勤しむ元明瀬山が見られるのか。

相撲中継の際には、土俵下の控に間もなく向かう気合に満ちた関取の横でちょこちょこ映し出されることになると思うが、取組を終えて引き上げる力士には新米親方に一礼をお願いしたい。

無表情で無愛想。でも本当はいい人。

人情派親方の新たな船出をみんなで応援しましょう!

明瀬山スペシャル!!↓↓↓

鏡山部屋物語(エピソード主体で)

 元横綱・柏戸が創設して51年の歴史を持つ鏡山部屋が閉鎖して2年以上が経った。
元・多賀竜の鏡山ら協会員全員が伊勢ノ海部屋へ転属。関取として頑張ってきた鏡桜も(日本国籍などの関係もあり)10場所にわたり番付外で過ごしたのちに、今年3月場所限りで引退した。

最後はとても寂しい形で幕を閉じた鏡山部屋をエピソードを交えて振り返る。

~柏戸時代~

部屋持ちになった親方として、スパルタ指導ぶりには定評があった反面、弟子たちには門限も設けないなどの自由な側面もあった。技術指導面では思い切って前に出ることを教え、40代前半までは自ら廻しを締めて弟子に胸を貸したというのだから、スゴい!引退してから10年以上も土俵に下りて指導をしていたなんて(あと結構、寛大な方だったんですね)

柏戸が育て上げた(代表的な)関取は
多賀竜・蔵王錦・起利錦・小沼・魄龍など、懐かしい面々。
※幕内優勝した多賀竜に審判部長として優勝旗を授与。蔵前国技館最後の場所となる1984年(昭和59年)9月場所の出来事。

そんな柏戸も、1996年12月に肝不全でわずか58歳で逝去した。部屋は愛弟子の多賀竜が継承する。

~多賀竜時代~

多賀竜は協会理事を6期勤め上げた。直弟子で唯一関取は鏡桜のみ。
何より部屋経営・新弟子勧誘がうまくいかなく、最後に新弟子が入門したのは2004年(平成16年)3月場所で、2008年(平成20年)5月場所を最後に当時序二段の鏡竜が引退して以降、所属力士は鏡桜と竜勢(多賀竜の実子)の2人のみという異常事態が13年以上続いた。

2021年7月の理事会で、鏡山部屋の閉鎖と鏡山(多賀竜)ら協会員全員が伊勢ノ海部屋へ転属することが決定。これにより、柏戸が築いた鏡山部屋は51年の歴史に幕を下ろした。

翌年3月の役員改選の際には停年が近いことから理事に立候補せず、役員待遇委員に任命されたことが明らかに。今年2月の停年後も再雇用によりそのまま鏡山親方として協会に在職している(参与)

やはり、資金面と有望な新弟子を発掘する包囲網(コネやツテ)が致命的に欠落していたのか。

例え話として(比較対象の次元が(失礼だが)かなり違うが)
なぜ白鵬(宮城野親方)は、有力・有能な新弟子を現役時代から囲うことができたのか。
なぜ(どこまでホントなのかわからないが)銀座や浅草などに新部屋設立の噂が(本当かもしれないが)マスコミ・ネット上でささやかれたのか。

白鵬の引退相撲がなぜあれだけの演出・趣向を凝らすことができたのか、答えは明白だろう。

時代は巡る。
鏡山部屋再興は何十年先になるのか、あるいはほんの数年したのちにパッと出現するかもしれない。

なんにせよ鏡山(柏戸・多賀竜時代)は、こうして51年の歴史に幕を閉じた。

多賀竜がらみのレアものです↓↓↓