北天祐・千代の富士戦、名勝負には理由があった

 北海の白熊こと元大関・北天祐。
入門時から大きな期待が寄せられ、「末は大関、横綱」「双葉山の再来」「未来の双葉山」とも称される。
またその端整なマスクから女性からの人気が高く、当時としては珍しく女性ファンから黄色い声援が上がっていた。

当時の北天祐ー千代の富士はホントにいい相撲・好勝負が多かった。
なぜか?どこまで本当かわからないが、理由や背景があったようだ。
ひとまず今日取り上げるこの取組は1985年7月場所13日目のものである。
時間前の痺れるような激しいにらみ合いから。

がっぷり四つでの力強い引きつけ合い、北天祐が千代の富士の上手を切りにいったり、外掛けを仕掛けたが未遂に終わる。最後は千代の富士が引きつけて勝負に出たところを踏ん張り、逆に力を溜めて豪快に吊り出してみせた。息をもつかせぬ白熱の一番だった。

ちなみにこの場所の優勝は、北天祐で13勝2敗の成績で挙げている。
この千代の富士戦の1勝で、対戦成績を(北天祐の)11勝12敗とするが、どういう訳かこの一番を機に千代の富士にほとんど勝てなくなった。北天祐・千代の富士の最終対戦成績は(北天祐の)14勝33敗となっている。

~北天祐の弟・富士昇~

さて、この二人の対戦が面白い相撲・いい勝負となる理由・背景の一部として挙げられることは・・・。
当時・北天祐の弟が九重部屋の力士だった。四股名「富士昇(ふじのぼり)」が千代の富士らを始めとする兄弟子連中が、富士昇に対して「かわいがり」の度が過ぎた版というか、殴る蹴るのプロレス技を駆使したとかで失明寸前までいったとか。
勿論、ここまでの事態に発展するには富士昇(北天祐弟)にも悪いところ・落ち度があるわけで。どうやら「生意気」「素行の悪さ」が重なったとされる。

知恵袋に書いてあったことを一部抜粋すれば、
富士昇(北天祐弟)は新弟子の頃から超の付く生意気だった。北天祐の弟をいい事に、門限破りや、大部屋での窃盗、親方への慣れ慣れしい態度は、兄弟子達の堪忍袋も限界に達して<か〇い〇り>に発展したと言われている。 事態はこれだけでなく、兄の後援会に金品をたかるなどしていました とあった。

そういった事が理由・背景とされて、北天祐は千代の富士戦に並々ならぬ闘志を燃やしていたとある。富士昇は、1982年7月場所限りで引退している。最高位は東三段目37枚目。現在の消息はわからなかった。

北天祐も千代の富士も鬼籍に入っている。
弟の件はさておき、この一番は熱狂した。何度見直しても手に汗握る。

北天祐が蘇る↓↓↓

野村(元・出羽の花)を振り返る

 日大卒。「学生横綱」タイトル獲得で鳴り物入りでデビューした「野村」にも挫折があった。幕下60枚目付出デビューの場所を負け越し。

プロの土俵、角界の水は甘くなかった。
所要8場所目での新十両(この場所から「出羽の花」)新入幕へはそこから15場所を要し、1977年11月場所で成し遂げた。この時間経過の間に何かを掴んだのか、引退までの62場所連続で幕内に在位する。

得意な形としては、前みつを引いての寄り、出し投げなどで上位を苦しめた。

愛称である「鉄の爪」が生かされた2番。
1982年3月場所7日目 対大関・琴風戦

同じく1982年3月場所9日目 対横綱・若乃花(2代目)
鉄の爪で当時の横綱・若乃花をちぎって捨てるかのような上手投げで勝った相撲。

初代・若乃花が師匠時代の二子山部屋勢、貴ノ花(貴乃花のオヤジ)若嶋津・隆の里にはいい戦績を残している。

1988年1月場所限り引退。
引退後は、年寄・出来山として出羽海部屋付きの親方として後進の指導に専念。
理事も1期(2年)務めた。2021年5月場所限りで相撲協会を退職。現在72歳。穏やかな日々を送っているのだろうか。

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1960年前後に存在した三賞に匹敵する賞とは

 昨日の「豊山3代」投稿で初代・豊山を調べていたら「雷電賞」という言葉に出くわした。

雷電賞

意味合いとしては、読売新聞社から贈られていた賞で、選考委員会の決議で決まる三賞とは異なり、関脇以下で最高成績をあげた力士が自動的に受賞する。また同成績の場合は決定戦を行わず番付上位の者が受賞となる。

1955年3月場所から制定され、1965年11月場所まで続いた。
最多受賞者は時津山・羽黒山(=安念山)・豊山(初代)・鶴ヶ嶺(福園3兄弟の父)の4回。 とビッグネームが並ぶ。

この表彰は、権威あるものとして受け止められ、三賞受賞者の記念撮影のときにも、三賞受賞者のなかで雷電賞も受賞した者は、軍配をかたどり、その上に雷電の手形を浮き彫りにした記念楯(歴代受賞者が刻まれたプレートが貼られる、持ち回りのもの)を並べて撮影することがならわしとなっていた。

Wikipediaにはいろいろ詳細が書いてあり、私自身が生まれる前のことで全く知らず初めて知りました。

雷電 爲右エ門(らいでん ためえもん)
西暦1800年前後にかけて(江戸相撲で)活躍した元大関(雷電てよく聞くんですけど、調べたら最高位が大関だったんですね)
現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

雷電の画像です↓↓↓

200年以上も前の話で、大相撲の興行形態などだいぶ異次元な話・感覚が多いのですが、こうして語り継がれ、一時的にも四股名をつけた賞が存在するぐらいの凄い力士だったのでしょう。

雷電賞=関脇以下の優勝力士

という解釈でいいのでしょうか、またひとつ学びました。

雷電の創作絵本、面白そうです!↓↓↓

豊山3代 「新潟県」 「東農大」

 この「豊山」という四股名は、名門・時津風部屋に受け継がれる由緒ある四股名である。

過去に3名存在。
有力・有望な力士に引き継がれた訳だが、この3人には共通点がある。
それは「新潟県出身」で「東京農業大学出身」であることだ。

3代目・豊山

元前頭、本名・小柳亮太の近影。

本人・X(旧ツイッターより)

去年11月場所限りで引退。今年4月に秋葉原で四股踏みトレーニングをメインとしたパーソナルジムをオープン。

そのトレーナー業だけに留まらず、故郷・新潟や東京でのハーフマラソンや各種スポーツイベントへの参加。見据える先には、来年3月の東京マラソンを走ることにあるそうだ。
「元相撲取りでも、ここまでやれるんだ」というアピールか。

現役時代の体重は178㎏あったが、現在は120㎏台らしい。
上に貼った画像は、それ以上に瘦せたかもしれない。髪の毛切って、ひげもきちんと剃って。精悍な印象すら漂う。

現役時代の最高位は、西前頭筆頭で敢闘賞1回を受賞している。

「2024年は楽しみにしてて」と自身のツイッターで予告めいたことをつぶやいていたのが散見されるが、これは何を意味するのか。

学生時代は同学年で近畿大学の石橋広暉(後の朝乃山)とともに学生相撲界のトップを走り続けた逸材を持ってしても、年寄株取得困難になった犠牲者になった一人か定かでないが、相撲(四股)をベースにした個人事業の成功をどこまでも祈りたい。

初代・豊山

1961年から1968年まで現役として活躍。
最高位は34場所務めた大関。
初土俵(幕下10枚目格付出)から大関まで所要13場所。早い時期から横綱を期待されたが、大事な一番になると硬くなって取りこぼすなど優勝に縁がなく、遂に横綱昇進は果たせず未完の大器に終わった。1968年9月場所限りで引退。

引退直後に師匠だった元・双葉山が死去。元・鏡里の当時立田川の継承を経て、豊山に(時津風継承の)お鉢が回ってきた。
育てた関取として、豊ノ島・大豊・時天空・蒼樹山・天ノ山などが主な面々。

また、1998年から2期4年に渡り理事長に在職。相撲界の改革に尽力した。

2代・豊山

1970年3月場所から1981年まで現役として活躍。
最高位は東小結。幕下付出(59枚目)デビュー。のちに横綱まで登り詰めた輪島の1場所あと。高額な契約金や雑用の免除、引退後の部屋継承という異例の好待遇で花籠部屋に入門した輪島に対し、長浜(豊山)は年寄名跡の確約のみで時津風部屋に入門し、自ら進んで中卒の新弟子達に混じり、ちゃんこ番や掃除番など部屋の雑用も積極的にこなしていたという。

その横綱・輪島戦には激しい闘志を燃やし、金星4個を獲得した(通算対戦成績は豊山の8勝12敗)するなど善戦。

1981年5月場所限りで引退。年寄・湊を襲名。湊富士などを育てた。
教員免許を持つなど文武両道の2代・豊山だったが、2020年9月19日、膵臓がんのため、72歳で逝去している。

時津風部屋に栄光あれ↓↓↓


ウルフ伝説 ~対寺尾戦・吊り落としの巻~

 通算1045勝・幕内優勝32回を誇る、大横綱・千代の富士 貢。
思い出の一番と言ったら数あれど、この対決も忘れられない。
その千代の富士が、当時26歳の若武者・寺尾を吊り落とした一番だ。

1989年11月場所5日目

寺尾は当時、その場所を含めた三役在位連続8場所中の2場所目。終わって振り返れば寺尾の全盛期。対する千代の富士は34歳を迎えていたが、この1989年はここまで3度の優勝を飾っており、まだまだ衰え知らずの強さを発揮していた。

寺尾はこの年の初場所に(8度目の対戦で)千代の富士を外掛けで破っている。2匹目のどじょうを狙うとばかり威勢よく大横綱に挑んだ。結果はその時の復讐と言うか「公開処刑」のような幕引きだった。

立ち合いから回転のいい突っ張り、千代の富士は堂々と受けて立つ。「来てみろ!」「ほら来いよ」とばかりに。結果はひとしきり「突っ張らせておいて」ウルフは寺尾の右腕をたぐり、後ろにまわる格好になって土俵に叩きつけるように「吊り落とし」が決まった。

同じことを書くようだが、寺尾の愚直で一途、勝利への思いの込めた突っ張りの矢を次々に悠然と(平然と)受け止めて、力の差を「吊り落とし」という技で体現してみせた。

大横綱としての証がそこにある。

千代の富士対寺尾の取組は17回の対戦があるが、なんてったってこの一番が代表的・忘れられない対決だ。

34年経った今、愛弟子阿炎との2ショット↓↓↓