朝潮・朝青龍説話

 元・大関、(4代)朝潮太郎。
年寄・親方としては良かったのか悪かったのか、適任だったのか不適任だったのか。

引退後、「山響」を襲名して、部屋付きで親方人生のスタート。
「若松」の病気廃業に伴い、若松部屋継承(12年間)
部屋付きの水戸泉(錦戸)が諸事情によって「高砂」を継げなくなり、この朝潮が受け継いだ(2002年から)以来「高砂親方」として振り返ると、やっぱり思い出されるのは、所属していた朝青龍の不祥事の数々、親方としての管理能力・立ち振る舞いか。

朝潮の朝青龍絡みのコメントの数々

自らの還暦を祝うパーティーを開催した際に赤い羽織と帽子を着用して
「朝青龍という強くて困った横綱を作りましたが、今後は和製(横綱)を作りたい。これが定年までの残された5年の私の夢。至らぬ親方、出来の悪い弟子ですが宜しくお願いします」

自身定年前の最後の本場所後のリモート会見で、朝青龍に対し
「あれだけのことをやった。庇うにもかばいきれない。自業自得。本人にそう言っておいて」と切り捨てた。

2020年の写真週刊誌のインタビューで
朝青龍とは「もし、メールを送ってきても、読まずに消すよ!」と絶縁状態であることを示した。
現・高砂の朝赤龍の人物像を「(朝青龍と)同じモンゴル人なのに、まったくタイプが違うね。彼ほど、おとなしい人は珍しいよ。とにかく人当たりがいいんだ。親方としてのポリシー?まあ、嘘をつかない、人を騙さないってことですよ」と皮肉まじりにコメントしたようで。

朝青龍には振り回された、苦労させられた。

朝潮が朝青龍をプロに勧誘した動機について「部屋を引っ張っていってくれるような元気な子が欲しかったんだ。朝青龍は体は大きくなかったけど、負けん気むき出しで、まさにピッタリだった」と。
無垢な青年が金と権力(成功)を若くして掴むと引き換えに大切な何かを忘れたのか。見失ってしまったのか。

朝潮と朝青龍の縁が戻ることはなさそうだ。
朝潮も苦労したなぁと、擁護派の私である。

朝潮マグカップで飲むコーヒーは…↓↓↓


史上最強の関脇・長谷川

 「史上最強の関脇」と称された長谷川(佐渡ヶ嶽)は1944年(昭和19年)7月20日生まれ、北海道空知郡栗沢村出身(出生地は樺太らしい)

1960年(昭和35年)3月場所に初土俵。
恵まれた体格で入門当初から期待・注目を集めていた。

新入幕は5年後の1965年(昭和40年)1月場所。連続勝ち越しでその年の9月場所で初金星(栃ノ海から)以降「上位キラー」としてその名をとどろかせる(金星なんと9個)
小結や幕内5枚目以内には頻繁に名を連ねるも「関脇」に登り詰めるまでは、少し時間を要した(新入幕から丸4年後・幕内25場所目)

左四つからの素早い攻め、時には足技を絡めて、幕内優勝1回挙げている(1972年3月場所)
北の富士との睨み合いや、大関獲りを競い合った貴ノ花・魁傑・輪島・三重ノ海らとの対戦が収録された動画がこちら。

番付運に恵まれず、関脇21場所在位したが(当時最多・現在2位)大関昇進はならなかった。

引退は1976年5月場所途中、当時の番付は東前頭8枚目。

当時師匠の11代佐渡ヶ嶽(元小結・初代琴錦)から次期佐渡ヶ嶽の後継者に指名されていたが、その11代佐渡ヶ嶽が急逝(1974年7月)その場所の長谷川は技能賞を獲得するなど、まだ余力を残している時期だった為、11代急逝直前に引退した琴櫻が継承し、長谷川は「年寄・秀ノ山」となり、部屋付き親方として後進の指導にあたった。

2009年7月場所限りで停年退職。

上述4名との対戦成績(長谷川から見て)
貴ノ花  8勝20敗
魁傑   8勝15敗
輪島   5勝18敗
三重ノ海 9勝14敗 となっていた。

素朴な疑問
①現役時代の四股名を本名の「長谷川」で全うしたのは何か理由があるのか。
どうして「琴」をつけなかったのか。
②両国駅改札付近に確かこの「長谷川」の優勝額が飾っていたはずだが、いつの間にか変わっていた。誰のものと変わったのかな?

Wikipedia・エピソードから
・ゆで卵を一気に20個、水も飲まずに平らげたことがあるという(これは本当か!?)

現役時代の長谷川のトレカをみーっけ↓↓↓

手をついて!!

 行司さんも大変です。
1988年2月に、春日野前理事長(元横綱・栃錦)からバトンを引き継いだ「土俵の鬼」こと当時の二子山理事長(元横綱・若乃花)は、立ち合いの正常化に努め、「待った」の制裁金を導入(後に廃止)し、行司に「手をついて」と掛け声を徹底させた。

私はよく動画(YouTube)を貼らせていただいてるが、二子山理事長就任前後の「立ち合い」に着目してもらえれば一目瞭然である。以前は手をつかずに中腰から立ち合っていて、これで成立、普通にまかり通っていた。

制裁金の件(幕内10万円・十両5万円)の罰金に関してはエピソードもあって、あの舞の海の現役時代、兄弟子の幕内力士(誰だかわからない)は1場所で7度待ったをしてしまい、月給がほとんど無くなったなんてこともあったとか。

今でも受け継がれている立ち合い正常化。力士同士の呼吸・合わせるタイミング・立ち合いへの意識、その中にある駆け引きなどなど…。

土俵下から審判長が睨みを利かせ、合わせる行司も厳格さが求められる。
現在、立ち合いに一番厳しいとされる木村晃之助(九重・三役格・58歳)

この行司にかかってしまってはスゴい!
「声はデカい」「威圧的」「上から目線」などと言われてるようだが。

これが行司の矜持であり、やらなくてはいけない仕事・業務である。
土俵以外(巡業の時などは)気さくで優しいという声もあるようです。
木村晃之助の更なる活躍を祈る!

※25日水曜日(20時より)埼玉・草加でトークライブがあります!
元力士が経営するお店からお届けします。現地参加もまだ受け付けてるそうですよ!

10月25日20時から草加の相撲バー「闘勝花」からVoicy公開生配信ですが、相撲の裏話、良い話、驚く話をテーマに店主の福田さんとお送りします。   食事を食べながら現地で観客として参加したい方は以下予約サイトもしくはmakushitasumo@gmail.comにご連絡ください! https://peatix.com/event/3738428

これを機に裏方さんをもっと知りましょう↓↓↓

把瑠都の怪力ぶりと近況

 史上初のエストニア出身力士、把瑠都 凱斗(ばると かいと)
大関まで登り詰めたその背景には、右四つ・寄り・投げ・吊りがあった。
相撲で成功したその怪力ぶりと、現在をお伝えする。

~あの白鵬の連勝を30で止めた~

2010年1月場所、あの白鵬の連勝を「30」で止めた一番。
ここまでですら、幕内優勝12回を誇る白鵬 翔。
その大横綱を、右四つから巻き替えると同時にすくい投げに仕留めてみせた。
白鵬も右からの上手投げを見せるも、投げの打ち合いを制したのは当時大関に向かって驀進中の把瑠都だった。

把瑠都はこの2場所後に大関昇進。
その後の成績から振り返ると、もう一段上の「横綱」という声・機運は高まらなかった。
2012年初場所に唯一の幕内優勝は果たしているが、芳しい成績は収められずケガが重なり番付を落とす。
引退は、この優勝から数えて10場所後の2013年9月場所前に発表。
栄光からの転落は早かった。

引退後は実業家となり、5つの事業を展開(格闘家としてもキャリアあり)
並行してタレント・俳優としても活動(オフィス北野所属)2018年5月、祖国エストニアで国会議員になるため帰国した。

~把瑠都の近況~

今年、今月(10月8日)には世界相撲選手権大会 エストニアチームの監督として来日した。把瑠都さんはエストニアに相撲道場を作り、国会議員の仕事の傍らに指導をしているという。白鵬との久々の対面、最初の方にちょこっとあります(5秒程度)

把瑠都、元気です!!

※25日水曜日(20時より)埼玉・草加でトークライブがあります!
元力士が経営するお店からお届けします。現地参加もまだ受け付けてるそうですよ!

埼玉県草加市 居酒屋 闘勝花

@toshoka

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草加の相撲バー闘勝花より元力士の福田さんと相撲裏話する生放送 – 西尾克洋 【2023年10月25日20:00配信予定】 https://voicy.jp/channel/3303/live/29258?q=7f005c3fa6… #Voicy

voicy.jp

この3大関時代を振り返ろう!↓↓↓

元大関・大受の栄枯盛衰

 突き押し相撲、おっつけ(脇の固さ)で大関まで上り詰めた大受久晃を振り返る。

小学校の修学旅行で泊まった函館駅前の旅館が高島部屋の勧誘を担当していた関係で、入門を誘われた。その後中学校入学間もない頃に、当時の高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家に訪れ熱心に説き落とす。他の部屋からも誘いがあったが、わざわざ家まで来てくれた高島部屋への入門を決意する。大受は10人兄弟の6男なので、入門に対する障害になるものがなく、スムーズに決まった。13歳の時に見習いとして上京。しかしその当時、規定の身長に12㎝も足りず、部屋近くの公園で身長を伸ばす目的で鉄棒にぶら下がり続けた苦労があった。

初土俵は1965年3月場所。結局シリコンを頭に入れた上の合格。
出世は早かった。十両までは4年半。
師匠からマンツーマンでの厳しい指導を乗り越えた末に掴んだ押し相撲で、新入幕の場所に技能賞を獲得。以降、三賞の常連となる。

大受の相撲人生の転機、最大の栄光は1973年(昭和48年)のこと。
春場所から小結で10勝(殊勲賞、3大関に勝利)関脇で11勝(殊勲と技能、2横綱・2大関撃破)関脇で13勝(3賞独占、1横綱・2大関打破)で文句なし、この7月場所後大関昇進が決定した。

※3賞独占はこの時点における史上初。翌場所に新入幕した大錦が横綱・大関を破るなどして2場所連続の3賞独占となったのは有名な話。

ここから手のひらを返したように、大受の力士人生は下り坂へとたどっていく。
腰痛やケガの影響で、大関在位はたったの5場所。関脇陥落の場所も9勝止まりで大関復帰ならず。以降も負け越しが多くなり、番付をじわじわと下降させていった。
引退を決めたのは、1977年5月場所。番付は西十両筆頭(当時大関経験者で初めて十両に陥落した)まで下げていた。

シリコンのエピソードに関して
・大受の現役時代の技術では一旦入れたシリコンは除去不能なため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた。
・相撲では「武器」になったらしく、当時の横綱・北の富士は「シリコンが入ってると、稽古しても痛かった。尖ってるから刺さるようで。たまったもんじゃないですよ」と述べたそうだ。
・引退後しばらくしてから、頭痛に悩まされるようになり、2009年春に除去手術を受ける。その時には頭の中でシリコンがグシャグシャになってたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだ。

私の印象としては
相撲好きになった頃には、勝負審判をしていた。いつもいつも四方のどこかに座っていた。
温厚で柔和な人柄が見た目から感じ取れた。
そんなところですかね。

貴重な映像・動画、対千代の富士戦が残っていた(昭和50年9月場所2日目)
この場所、新入幕で迎えた千代の富士の初勝利の一番というおまけ付き。
千代の富士、当時20歳・体重96㎏(推定) 
若い若い、細い細い! がぶり寄りで決めてみせた!

定番の相撲チョコレートです↓↓↓