3代・朝潮の人物像

 3代・朝潮太郎。
現在の高砂から数えて3人ほど前の高砂(5代)であり、元横綱である(46代)
今日の投稿は親方としての3代・朝潮にスポットを当てる。怖くて厳しい親方だったらしいが一方で人情味あふれる数々のエピソードを紹介する。

4代・朝潮(長岡)編

・なかなか思うように大関昇進基準の星を挙げられず、大関獲りまで時間のかかった朝潮(長岡)に対して「朝潮という四股名をやったのは大失敗。黒潮にしておけばよかった」と嘆いたが、その末に昇進を果たした。
・大関昇進後も5代高砂(元横綱・朝潮)から稽古中に当たり前のように竹刀で叩かれていた。

双羽黒=北尾光司編

・この3代・朝潮の葬儀には廃業していた双羽黒が出席した。双羽黒が(事実上の)破門された経緯からこの出来事は意外だが、双羽黒曰く「事件の際、今迄お世話になった高砂親方に大変迷惑を掛けてしまい、深く責任を感じていた」とのことである。

小錦 八十吉編

3代・朝潮が死去した際、弟子の小錦は「みんなは俺のことをガイジン、ガイジンって言ったけど、親方は言わなかった。俺も体を切ったら赤い血が出る。お前も赤い血が出る。おんなじだよと言ってくれた」と泣いていた。

3代・朝潮太郎
総じて言えば、相撲・稽古には人一倍厳しく、とっても優しくて寛大な器の大きい方だったのか。ユーモアが利いて。
愛称(ニックネーム)のひとつとして「ケガニ」とあった。

1950年代が蘇ります↓↓↓

高田川師匠の評判と3代目・若乃花のエピソード

 昨日・おとといと2日連続で(相撲の)トークライブに出掛けてきました。
順におとといは埼玉県草加、昨日は東京・池袋と。

そこで記憶、印象に残った話題・ネタを紹介します。

25日の草加にて
いろんな忘れられないネタがありましたが、高田川親方の寛大さってところですかね。
アメとムチの使い分けが絶妙らしいんです!

所属力士全員に分け隔てなく声を掛ける。
⇈簡単にできることではないです。
「いいよ、いいよ」「絶対にこれを続ければ上に行けるよ!」「自信持ちなよ」
などなど、プラスに前向きな声掛けが次々に出てくるらしいんですよ。
かなりキツいことを言っても、必ずどこかでフォローがあるらしい(当然と言えば当然ですが)

(全員ではありませんが)中卒力士が多いのもこの部屋の特徴。親方なりのこだわりがあるみたいで。

親方の現役時代(殊勲インタビューなど)そこだけを取ると、不愛想・仏頂面(極端なまでの)無口など良い印象があまりなかったのですが、わからないものですね。

埼玉・草加にある居酒屋・闘勝花。気さくでおしゃべり大好きな元力士の店主が営む楽しいお店でした。

お店の情報です↓↓↓

https://tabelog.com/saitama/A1102/A110203/11033952/

26日・池袋編
「豊ノ島の部屋」と題したトークライブ。

豊ノ島とゲスト、3代目・若乃花でのやり取りの中で一番印象に残った(楽しい)話題は
(20年以上経ったから言えるが)若乃花が横綱在位時に7勝8敗で負け越した時のエピソード。
若乃花は当時の師匠(父でもある)貴ノ花に「引退します!」と即刻、その旨を伝えたが、師匠は「まだやるよな、まだやるよな」と3~4時間かけて強引にねじ伏せられたらしい(引退撤回をさせられた)とかで、千秋楽の打ち上げパーティーをやっているというのにそこを抜け出して、当時の理事長だった時津風理事長に2人で「現役続行」の意志を伝えに行った・・・の逸話があったそうだ(笑)

あと、現役の頃の若乃花は立ち合いの「待った」が比較的多かったが、そこで怒鳴りつける感じの鏡山審判(元横綱・柏戸)の注意は何を言っていたのかさっぱりわからなかったとのこと。会場がドッとウケてましたね。

NHKの中継画面でも、よくブチ切れた鏡山(柏戸)の姿は映し出されてましたが・・・(笑)

来年のカレンダーはいかがでしょうか↓↓↓

大潮の十両在位場所数には重みがある

 大潮憲司。
現役時代は息の長い力士として活躍。
初土俵 1962年(昭和37年)1月場所
引 退 1988年(昭和63年)1月場所 

今でも輝き続ける記録もある。

通算出場と十両在位が現在でも史上1位。
長く続けてきた証、実力が伴ってる裏付けである。

私が子供の頃、国技館で買ったパンフレットを隅から隅まで目を通して「初土俵」がその時点で一番と言ってもいいくらい古く「ベテラン古参力士」なんだなぁと子供心に思っていた。あと、当時のパンフレットには(確か)後ろの方に出場記録など各種記録が書かれていた(と思った)それには大潮と同じ時津風部屋の古豪力士「牧本」の記録が掲載されていた(現役在位場所数など)ことを覚えている。

十両在位55場所とあった。
かつて、春日野部屋で確認した蜂矢とともに史上1位タイという大記録。ここを深掘りすれば、大潮はこの十両在位に加えて、幕内在位が51場所ある事だ。言い換えれば幕内に8年以上、十両が9年以上というのは居座り続けたのは、筆舌に尽くしがたいほど偉大なことだ。
対する蜂矢の幕内在位は4場所なので関取時代は(失礼だが)「ほぼ十両」の力士だった。

蜂矢です、覚えてますか↓↓↓

十両の在位場所数のランキングがあった↓↓↓

順位十両在位四股名最高位
1位55場所大潮憲司小結
蜂矢敏行前頭6
3位54場所栃勇義治前頭7
4位51場所大文字研二前頭5
朝登俊光前頭2
6位50場所大竜川一男前頭1
7位49場所東龍強前頭11
8位48場所北桜英敏前頭9
9位47場所大旺吉伸前頭4
魄龍弘十両1

個人的には、一番下に名前のある「大旺」「魄龍」が懐かしい。特に「魄龍」↓↓↓

大潮には通算3個の金星がある。
そのうちのいつだったか、北の湖を破った一番を現地で見ている。
結びまで見終わって当時の国技館を出ようとした時に、偶然、殊勲の星を挙げた大潮を見かけた。握手を求めたら気さくに応じてくれたことを今でも忘れない。でっかくて、ごっつい手だったから。

来年の卓上カレンダーはいかがですか↓↓↓


朝潮・朝青龍説話

 元・大関、(4代)朝潮太郎。
年寄・親方としては良かったのか悪かったのか、適任だったのか不適任だったのか。

引退後、「山響」を襲名して、部屋付きで親方人生のスタート。
「若松」の病気廃業に伴い、若松部屋継承(12年間)
部屋付きの水戸泉(錦戸)が諸事情によって「高砂」を継げなくなり、この朝潮が受け継いだ(2002年から)以来「高砂親方」として振り返ると、やっぱり思い出されるのは、所属していた朝青龍の不祥事の数々、親方としての管理能力・立ち振る舞いか。

朝潮の朝青龍絡みのコメントの数々

自らの還暦を祝うパーティーを開催した際に赤い羽織と帽子を着用して
「朝青龍という強くて困った横綱を作りましたが、今後は和製(横綱)を作りたい。これが定年までの残された5年の私の夢。至らぬ親方、出来の悪い弟子ですが宜しくお願いします」

自身定年前の最後の本場所後のリモート会見で、朝青龍に対し
「あれだけのことをやった。庇うにもかばいきれない。自業自得。本人にそう言っておいて」と切り捨てた。

2020年の写真週刊誌のインタビューで
朝青龍とは「もし、メールを送ってきても、読まずに消すよ!」と絶縁状態であることを示した。
現・高砂の朝赤龍の人物像を「(朝青龍と)同じモンゴル人なのに、まったくタイプが違うね。彼ほど、おとなしい人は珍しいよ。とにかく人当たりがいいんだ。親方としてのポリシー?まあ、嘘をつかない、人を騙さないってことですよ」と皮肉まじりにコメントしたようで。

朝青龍には振り回された、苦労させられた。

朝潮が朝青龍をプロに勧誘した動機について「部屋を引っ張っていってくれるような元気な子が欲しかったんだ。朝青龍は体は大きくなかったけど、負けん気むき出しで、まさにピッタリだった」と。
無垢な青年が金と権力(成功)を若くして掴むと引き換えに大切な何かを忘れたのか。見失ってしまったのか。

朝潮と朝青龍の縁が戻ることはなさそうだ。
朝潮も苦労したなぁと、擁護派の私である。

朝潮マグカップで飲むコーヒーは…↓↓↓


史上最強の関脇・長谷川

 「史上最強の関脇」と称された長谷川(佐渡ヶ嶽)は1944年(昭和19年)7月20日生まれ、北海道空知郡栗沢村出身(出生地は樺太らしい)

1960年(昭和35年)3月場所に初土俵。
恵まれた体格で入門当初から期待・注目を集めていた。

新入幕は5年後の1965年(昭和40年)1月場所。連続勝ち越しでその年の9月場所で初金星(栃ノ海から)以降「上位キラー」としてその名をとどろかせる(金星なんと9個)
小結や幕内5枚目以内には頻繁に名を連ねるも「関脇」に登り詰めるまでは、少し時間を要した(新入幕から丸4年後・幕内25場所目)

左四つからの素早い攻め、時には足技を絡めて、幕内優勝1回挙げている(1972年3月場所)
北の富士との睨み合いや、大関獲りを競い合った貴ノ花・魁傑・輪島・三重ノ海らとの対戦が収録された動画がこちら。

番付運に恵まれず、関脇21場所在位したが(当時最多・現在2位)大関昇進はならなかった。

引退は1976年5月場所途中、当時の番付は東前頭8枚目。

当時師匠の11代佐渡ヶ嶽(元小結・初代琴錦)から次期佐渡ヶ嶽の後継者に指名されていたが、その11代佐渡ヶ嶽が急逝(1974年7月)その場所の長谷川は技能賞を獲得するなど、まだ余力を残している時期だった為、11代急逝直前に引退した琴櫻が継承し、長谷川は「年寄・秀ノ山」となり、部屋付き親方として後進の指導にあたった。

2009年7月場所限りで停年退職。

上述4名との対戦成績(長谷川から見て)
貴ノ花  8勝20敗
魁傑   8勝15敗
輪島   5勝18敗
三重ノ海 9勝14敗 となっていた。

素朴な疑問
①現役時代の四股名を本名の「長谷川」で全うしたのは何か理由があるのか。
どうして「琴」をつけなかったのか。
②両国駅改札付近に確かこの「長谷川」の優勝額が飾っていたはずだが、いつの間にか変わっていた。誰のものと変わったのかな?

Wikipedia・エピソードから
・ゆで卵を一気に20個、水も飲まずに平らげたことがあるという(これは本当か!?)

現役時代の長谷川のトレカをみーっけ↓↓↓